クィリルの顔色が優れない日が続いた。リンは恋人の青白い顔を見守るだけの日々に一週間で焦れて、何があったか聞かせてくれなきゃ今日は帰らないぞ、とクィリルの住む集合住宅の玄関先で凄んだ。わざわざクィリルの終業時間を見計らって職場近くを訪れ、自宅まで送るという口実で詳細を問い詰めにやってきた恋人に、心配はありがたいけれど、と言いかけてクィリルは口を閉ざした。
 日暮れも近い。クィリルは隈を作った目元に早々に降参の意思を浮かべて、リンをなだめるようにこう言う。
「悪夢を見るの。それだけよ。夢見が悪いのは昔からのことだから」
「……魔法医に診てもらうのは?」
 リンがうすうす返答を予想しながら提案したが、クィリルは案の定首を横に振った。悪夢祓いは魔法医に頼るのが定石だが、書架整理をして得るクィリルの手取りを考えると途方もなく高い。そして悪夢祓いは、それほど高い魔法医に頼ったとしても結果は五分五分と考えられていた。
「お茶でも飲んでいく?」
 クィリルの、恋人たちの常套句のはずなのに色っぽさの欠片もない提案に、今度はリンが横に首を振る番だった。クィリルにそういった意図はほとんどない。ただ本当に、恋人を立ちっぱなしにさせるよりは、という気遣いしかないのだ。そういうクィリルに焦れていたし、その健やかなやさしさを愛してもいた。だから、リンは立ったままこの提案をすることになる。
「クィリル、金のことだったら俺がどうとでもできるよ」
「そんな、甘えられないわ」
「なら、俺と一緒になることは考えられない? そうしたら同じ財布だ」
 クィリルの表情の変化を注意深く見ながら、リンはその言葉を発した瞬間に早々に敗北を知った。そう何度もないことだが、リンが結婚をほのめかす発言をすると、クィリルは頑是ない子供の他愛ないわがままを聞いたように顔つきをやさしくする。そしてゆるやかに首を振るのだ、何も言わずに。
 少なからず傷ついたリンが、追い縋るように呟く。
「……俺と一緒にいたくない?」
「いたいわ。いつまでもこうしていられたらいいのにって、心から思ってる」
 嘘偽りのないまごころの籠もったクィリルの声に、リンは肩を落とした。クィリルの言葉が指すものと、リンが思い描く結婚生活との、それぞれいったい何が違うのだろうか。

 次の日、リンは鬱屈を払おうとカフェを訪れた。新鮮な果実を絞って作るジュースを頼んで、昨日のあらましを店主夫妻に話す。求婚の部分はもちろん省いて。
「悪夢祓いか」
「高いのかな」
「魔法医の煎じる魔法薬に大金を払った御仁を知っちゃいるが、結果は気休め程度だったとぼやいてたな。性質の悪い例だがもしも夢魔が関わってるとすると、医者よりも戦士の腕が必要になるらしい。戦士が夢に潜る術はまた稀少で、更に高いそうだ」
 店主ワンズの言葉にリンが力なく天を仰いだ。
「クーの様子は?」
「顔色が悪くなっていく一方なんだ。病気にでもなるんじゃないかって心配で……」
「――夢を『消す』のは高くつくが、『譲る』って手もあるぞ」
 その声は立ち飲みスペースの端の方から聞こえてきた。リンが振り返ってそちらを見ると、声の主は武器をさげた旅装という身なりからして一目で冒険者とわかった。ワンズのカフェの客層は専ら地元民だが、よそ者である彼らが訪れることも時折ある。
「譲る?」
「ただし吉夢は高値でも売れるが、悪夢は宝石でも付けないと譲り渡すのは難しいだろうね」
「――うってつけじゃないか」
 宝石、の言葉に素早く反応した金細工職人の跡目が身を乗り出す。
「対価はあるよ。方法は?」

 情報は有償である。冒険者にとっては当たり前のその常識によってきっちり前払いで情報料を請求された上で、リンは活路を見出した。ただその活路は昼日中でもどこか暗い路地裏に続いていて、覆いをかけた露店の続く怪しげな場所に出た。情報の信ぴょう性を早速疑いながらも、瞼の裏に映る恋人の青い顔に背を押されて、入り組んだ路地裏を示された道順通りに辿ってゆく。
 それは立ち並ぶ露店の一つで、主はちんまりとした老婆だった。その身体に見合うサイズの座卓に置かれた立て札から察するに、占いを商っているようである。
「夢占いでもするの? こちらさんで、悪夢を引き取ってくれるって聞いたんだけど」
「悪夢祓いなら魔法医を勧めるがね、」
 聞き心地がいいとはお世辞にも言えないしゃがれた声だった。この声を聞いても夢を売買する客があり商売が成り立っているのかと思うとそら恐ろしい気持ちになりながらも、リンは負けずに老婆を見返した。
「夢を消すのではなく譲ることができると聞いたよ」
「吉夢かい」
「凶夢だ」
「吉夢は高値でも売れるが、凶夢は……」
「――それはもう聞いた。いくらかかる?」
 用意はある、とリンが懐に手を突っ込むと、老婆がさっと手を出してとどめる。
「金銀や財宝がついても、悪い夢をもらおうという客は少ないものさ。凶夢を引き受けてでも、金になるものが欲しいという人はね。そりゃああたしのために仲介料は頂くよ。だがまずは相場を決めないとね、夢の内容はどんなだい」
「……わからない。当人も話したがらない。ただ安らかな眠りを長く妨げていることは確かだ。どうにかしてやりたいんだ」
 リンが真剣な声で詰め寄れば、老婆は声を和らげて、あんたの可愛い人かい、と聞いた。わずかな沈黙で却って答えが知れて、そうかい、と優しい声を出す。
「若い女の見る悪夢は知れているさ……恋人があんたのような美丈夫ならね。金貨一枚で済むかもしれない。魔法医に頼むより安く済むかもわからないさね。だが、夢魔にでも取り憑かれていたら話は別さ。宝石を袋いっぱい用意したって、夢ごと突っ返されるのを覚悟しておきな」
 老婆は仲介料と引き換えに茶色の小瓶を取り出して、悪夢に悩んでいる恋人のベッドの下に置きな、と指示した。次の日にもリンはそれを遣り遂せた。寝不足が続くクィリルを自宅に送り届け、ちょっとした立ち話をわざと長引かせて「お茶でもしていく?」と例の健やかな誘いを受けた時に、クィリルの目を盗んで小瓶を置いた。その日、夢の対価は小粒の青いサイドストーンだけだった。
 だが、夢魔を恐れてなかなか客がつかないことも有り得る、といった老婆の言葉通りだった。次の日リンは前日よりも粒の大きな宝石を持ち込んだ。だがやはり客がつかない。オニキスのついた小さなシューズマーカ―に替えた。一度飛びついた客が、翌朝には突っ返した。夢魔がいた、とひとくさり吹聴して回ったというので、リンは思い切って金細工の腕輪に替えた。次の日、ダイヤモンドのネックレスに。客はつかなかった。夢魔のうわさに誰も寄り付かない。クィリルの目の下の隈は濃くなって、和らぐ気配を一向に見せない。
 その日も日課のように老婆の同情の表情に迎えられ、リンは露店の前で難しい顔で腕組みした。ネックレスを返しながら、馬鹿なこと考えてるんじゃないだろうね、と老婆が忠言の響きで囁く。
「……俺が悪夢を譲り受けるっていうのは?」
「ほうら、馬鹿だ」
「可能だろう。宝石もいらない。仲介料だけで済む」
「夢魔かもわからないんだよ、相手は」
「かまやしない。決めた。――俺が譲り受ける」

 その夜、リンは夢を見た。
 白いもやの立ち込める世界に立っていた。リンには明晰夢の経験がほとんどない。夢の中にあって状況を把握しているということは、つまりクィリルからうまく悪夢を引き受けられたのだろうとほっとして、気持ちにはむしろ余裕があった。
 何がくるのだろうと身構えていると、意識して研ぎ澄ました聴覚がやがて音を拾い出した。リンはそれを最初、何かの甲高いさえずりかと勘違いした。密やかなのにかしましく、聞くに堪えない女の笑い声だった。なぜそうまで不快に思ったか――クィリルの声に似すぎている。彼女はこんな、浮ついた、媚びを売るような声をけして出さない。
 だのに。立ち込めるもやが晴れて、その光景に直面した時リンは立ち竦んだ。二つの人影がいかがわしく一つに合わさって、男の腕に後ろから抱き込まれた赤髪の女が――クィリルが、くつくつとふしだらなほど甘く低い声でさざめき笑い立てていた。
 男の顔はよく見えない。けれどクィリルが笑う。笑ってリンを呼ぶ。あぁ、リン、ちょうどよかった。あなたに紹介しようと思っていたのよ。クィリルの声だというのにやたらと陽気で、不自然ったらない。
「私、あなたとは別れることにしたの」
 不自然でもクィリルの声で、クィリルの表情で、正面からそう言い放たれると、少なからず衝撃が走った。夢魔だ、と自分に言い聞かせる。夢魔の見せる幻だ。
「この人と生きてゆくわ」
 この人、という言葉と共にクィリルが背後の男に頬を寄せる。その仕草のみだらな様に、その男とは既にどこまでも打ち解けていることをリンに知らせた。偽物だ、と必死に冷静を保つ。だがリンを打ちのめしたのは、クィリルの造形をした夢魔の幻のつまらない言動ではなかった。この夢は。この悪夢は。
「この人はあなたより、私の病のことをわかっているから――」
 は、とリンは短く虚ろに笑った。優しさだとか思いやりだとか、身分だとかお金だとかではなく、病への理解か。夢魔はどこまで人の心を理解しているのか、リンの最も後ろめたく思っている部分を痛く突く。彼女の癒えきらぬ病に、自分が真に寄り添えているか、いつも不安でいることを。
 一方で、リンは予想する。クィリルもこれと同じ夢を見たのだ。どこぞの女を腕に抱いて、彼女と生きてゆくよ、と平然と宣言するリンを夢に見たのだ。この子の方があんたよりよっぽど素直で、魅力的で、何より面倒な病なんか持たない、健康な人なんだよ。……とでも。
 リンが一組に交わる二つの影をただ睨みつけていると、ふいにその輪郭がぐにゃりと歪んだ。アメーバのように虹色の影となって蠢き出したその物体が、やがて忌々しげな声を出す。
「なんだい、台座の様子がずいぶん違うね。あのしゃがれ声の婆あの仕業だな。ずいぶんと健やかな男をよこしてくれたもんだ……」
「夢魔か?」
「つまらない名で呼ぶんじゃないよ」
 声は禍々しかったが、リンにいくらか怯んでいる気配もあった。リンは十分に用意をしてこの夜に臨んだ。夢魔はエンプーサと呼ばれ、心弱い者の夢に忍んで行き、悪夢を見せてその精神力を蝕むという。リンはすぅ、と深呼吸して、改めてエンプーサを睨みつけた。
「王室に出入りを許されている金細工職人の人脈を侮るなよ。これ以上クィリルに干渉するようなら、術者の力で屈強な騎士をここに呼びつけてお前を八つに斬らせるぞ、この低級悪魔め!」
「脅しのつもりかい。でたらめ言うんじゃないよ。……あぁ、あの子はよかった。一度心を握りつぶされた、脆く儚いあの子の眠りは、入りやすくてねえ……お前の姿を見せて色々あることないこと吹き込めば、しくしく嘆いて、ああ、その湿っぽさがたまらなく居心地がよかっ――」
 リンは夢魔を遮って鋭く呼んだ。オズワルド、頼む。唐突に呼ばれた第三者の名前に、夢魔の動きが止まった。もやのかかる世界に青い光明が差し込んで、誰と知れぬ詠唱の声がどこからともなく響き始めた。これは、と夢魔があからさまに狼狽える。リンの背後に、ぼうっと円形の光が浮かび上がる――異なる二つの世界をつなぐ魔法陣。
 ――リン、どけ!!
 雄々しい声が轟いて、事態の把握がしきれず身じろぐ夢魔の正面からリンがとびのき、わずかな時間差で銀色の矢が立て続けに打ち込まれた。矢じりは的確に夢魔の身体を貫き、虹色の影は断末魔を叫ぶこともなく細かい痙攣を繰り返して、やがて煙のように消え去った。



「人が夢に潜る術ってのは……高いんじゃねえのか」
 あくる日、あらましを知ったカフェの店主ワンズがわずかに心配そうに言うと、リンはひらひらと手を振った。
「術の難易度は夢に潜るものの質量によるそうでね。今回の場合、矢を二、三本打ち込んだだけだから、人そのものを送り込むよりはお安く済むそうだ。オズワルドに至っては完全にお友達価格だよ」
「クーもあなたも助かって何よりだけど……クーは気にしてるんじゃない?」
 夫と同じ声の調子でサシエも言えば、やはりリンは事も無げに応えた。
「してるよ。感謝された。今なら何でも願い事を聞いてくれそうだ。結婚してくれるかも」
 気軽な調子が却って本気度の低さを知らせた。少し前の、一日でも早くクィリルと縁付こうと躍起になっていたリンを知る夫妻は顔を見合わせて、少し首を傾げる。軽口を叩いたきりリンは口を噤んで、虚空を見つめたままカップを持ち上げた。

 リンの中の奥底に、静かに重石が置かれた。それはリンに落ち着きと覚悟をもたらした。皮肉にも、二人で見た悪夢が知らせてくれた。クィリルの最大の恐れと悲しみが、すなわち恋人の喪失であって、リンとまったく一致していたことを。
 けれど同じ夢を見ていても、事情が少し違う。最も恐れるものとしてリンとの別離を悪夢に見ながら、結婚をちらつかされても首肯しなかったクィリルを思った。彼女の中に根を張っている、頑なな思い込みにも似た、それもまた覚悟。

 リンは示しし合わせて、終業後にクィリルと落ち合った。デートしよう、と持ち掛けて、クィリルは黙って受け入れた。そこに、以前にはなかった従順を見て、リンはひっそりと苦笑する。
 場所はいつもの、図書館前の公園だった。日が長くなったので、それほど急ぐ必要もない。同じベンチに座って、拳一つぶんの距離をあえて縮めずにただクィリルの細い手を取る。指を絡めてもクィリルはただされるがままだ。沈黙が続くのに、不思議そうにリンの顔を見上げる。
「……ねえクィリル」
「ええ」
「あんたは、あんたの病とどこまでも付き合う心づもりだろう?」
「……ええ、そうね。じたばたしたって仕方がないもの」
 クィリルの落ち着いた声に、それに反して少し不安げに揺れる瞳に、リンは眩しいものを見たように目を細めた。つないだ手をそっと引き寄せ、頭を下げて額に触れさせる。誓いのように、囁いた。
「……そんな風に、痛みを受け入れて生きていくと決めてるあんたを尊敬してるし、いつまでも寄り添いたいと思ってる。……心からそう思ってることを、どうか信じて欲しい」
 クィリルはリンの言葉の咀嚼を逸って、恋人の顔を覗きこもうとした。やがて通じ合う目線に、慌てたように口を開く。
「リン、私、あなたと」
「いいんだ」
 リンは、手指を絡めた指先に力を込めることでクィリルの言葉をとどめた。
「いいんだ、クィリル。……そういうことにこだわるのはもうやめたんだ」
「でも、あなたには、家の跡を継ぐ役目が」
「子飼いの職人が他に何人もいるんだ。俺より腕がいいのが出てきて、そっちが継ぐかもわからない。気にすることないよ。元々母親が早くに死んでいるし、どうしても女手が必要ってわけじゃない」
「そんな……」
「だからって勘違いしないで。あんたが欲しいとさえ思ったら、俺はもう一切合切差し出すつもりでいるよ」
 だから、と続くリンの声がわずかに湿り気を帯びる。クィリルはただ神妙に聞いていた。
「前にも、言った気がするけど、……どうか、俺を諦めないでくれ」

 街の外れに、リンの父親が建てた小さな小屋がある。工房の喧騒を離れて製図に集中したい時に寝泊まりする小屋だ。クィリルがそこへ行きたいと自ら願い、リンは連れて行った。二人、日が暮れてもいつまでも話し込んで、クィリルはその日結局帰らず、生まれて初めての外泊となる。天涯孤独の身で、咎める者はなかった。