サトリとナサヤは酒場の中で席を移動した。ヒロが明らかに縋るようにヨシュアの近くを陣取れるカウンター席を眺めていたからだ。譲るよ、とサトリが立ち上がれば、ありがとう!と晴れやかに言ったヒロに、ナサヤはただただ不思議がった。こんなに素直で快い反応をする美しい少年を、リンはどうして忌避するように出て行ってしまったのだろうと。
 移動した先のテーブル席で、ちょっと、とサトリはナサヤを招いた。耳を寄せたナサヤに、サトリが囁く。
「カザの子供らしい」
 その一言を咀嚼する間に、ナサヤはゆっくりと神妙にサトリを見返した。悪童カザ。血に染まった赤髪の、悪逆非道の不老不死。不吉な名前に、みな死神を連想したように怯える存在。地の果ての平穏は、彼のために消え失せたという。
「……カザって、悪人なんだろ?」
 ナサヤが聞いて、サトリが頷く。
「稀代のな」
 ナサヤは痛ましげにカウンター席を振り返った。慣れているようには見えない酒を呷りながら、はしゃいだ表情でさかんにヨシュアに話しかける無邪気なヒロの様子を。
「ハオの瞳は、サトリと同じ緑色だ」
「そうだな」
「親の瞳の色を子が継ぐように、カザの性質を引いていると思われているのか、あの子も」
「瞳の色を見たろう。悪童の血筋だけがあの金色を継ぐといわれている」
 ナサヤは、間を置かずに答えたサトリに傷ついたように目を細めた。
「……なあ、あの子」
「うん」
「あの人のことが好きなんだな」
 遠目にも、酒のせいのみならずヨシュアに語り掛けるヒロの食いつきは情熱的だった。ヨシュアを見つめる瞳の輝きが何より雄弁だった。
 ――俺たちとおんなじだ。卓の上で互いの手指を絡め、そうだな、と労りを込めてサトリが頷いた。

「リンの悪童嫌いのことか。ああ、知ってるよ。悪童を好むやつはいないが、リンは特別だ」
 酒と共に夜を過ごしても胸にひっかかりを残したナサヤが、明けてサトリを仕事に見送ったあとハオを抱えてカフェに赴いたのは自然な流れだった。街でも指折りの事情通、何よりヨシュアの兄でもあるワンズなら何か知っているだろうと見当をつけたからだ。
 そして問われたワンズは、グラスを磨きながらまず常連客であるリンの弁護から始めた。
「リンの仕事を詳しく知ってるか。そう、金細工職人だ。メイスフィールド家は昔から、鉱山のドワーフと交流があってな。リンも、親父と一緒に年に一度は鉱山を訪ねて、家を一月ばかり空けていたよ。技術を高め合う良好な仲だったらしい。リンはあれで、ドワーフを心底尊敬していた。だが、ドワーフは悪童征伐の勢力にも一枚噛んでいて、悪童と戦う戦士が使う武器の制作にも携わっていたらしいんだが――どうした?」
 いや何でも、と取り落しかけたカップを大事に持ち直しながらナサヤが取り繕った。
「それを聞きつけた悪童が、ドワーフの大半を殺した。悪童と入れ違いで惨状を見たリンの親父は、しばらく悪夢にうなされたくらいの有様だったらしい。名工の死で、継承されるべき技術は失われた。俺には想像もつかんが、職人にとってはあまりに胸の痛い話だろう。リンはしばらく荒れていたな――……それが十年前だ」
 ヒロが来たのも十年前、と変わらない口ぶりでワンズは主題をヒロに移した。
「五つか六つのヒロを連れてきたのはレイヌに馴染みの行商だった。どこぞの村で、素性を知りながらついに絞め殺す勇気がなかった農婦から預けられたと。行商も空恐ろしくは思ったが、元の人里に返すのは無理だと悟って、ならば神の慈悲に縋ろうと教会の孤児院に迎えられた。ヒロは昔から性格が変わらなくてな。見目がよくて愛嬌があって、活発で……とても悪童の血が流れているとは思えないと」
 ワンズが少々くたびれたように言葉を区切ると、サシエが水の入ったグラスを差し出した。有難くそれで喉を潤して、仕切り直す。
「殺すべきだ、と誰からともなく主張し始めた。結界がまだ脆弱だった時分に、魔物に家族を食われた記憶が新しい人間も大勢いた。ヒロが、悪童の息のかかった魔物を引き寄せかねないと大真面目に主張する大人もいたくらいだ。まだ子供だと庇われ、だが悪童の血筋だと中傷され、ヒロの処遇を巡って街じゅうが騒ぎになって、ついに判断は王城の国王陛下に委ねられた――レイヌに平穏をもたらしたのは陛下だ。悪童についても、魔物についても陛下より詳しい人間はこの国にいない。その陛下の判断なら従おう、ってわけだな」
「それほどの騒ぎになって、ヒロは無事だったのか?」
 赤子を抱きながら聞くにはあまりに凄惨な話に、眉を下げたナサヤが問うと。そこだよ、グラニの君、とワンズは初めてにやりと笑った。
「この長話を続けてきた甲斐があったよ、ようやく自慢話ができるわけだ。悪童の血筋など殺してしまえと逸る大人達の前に立ちはだかってヒロを庇ったのは、神父と、同じ孤児院の子供たちと、そして我が愚弟ヨシュアだったわけさ。数少ないヒロの味方として王城に上がった神父たちとヨシュアは陛下に縋った。自分たちの見る限り、ヒロは盗む卑劣も傷つける残酷も一切持ち合わせないただの子供だと」

 ――ふむ、確かに今は子どもだ。
 と、国王フェルステッドは言った。
 ――だが長じてのち、悪童の血筋を発揮するような有様となれば、そなた、何とする。

「言い淀む神父を差し置いて、愚弟は言い切ったのさ」

 ――その時は私がこの手で殺します。

 ――ですから慈悲を下さい、陛下。
 ――殺すに足らぬ子供が、陛下に身を投げ打って尽くすほどの大人になるまで、必ず私が見張っています。ですから、陛下――

「そして奇跡が起きた。いかに悪童と因縁深き者もヒロに私刑を行ってはならない、と国王自らが命じたんだ」
「……だから、」
 酒場で見た、ヨシュアを見るヒロの横顔に宿る必死ともいえる熱情を思い起こして、ナサヤは呟いた。
「命の恩人ってわけだ……」
「ヒロにとってはな」
 ナサヤは考え事に耽りつつも愛娘を抱え直して、ふと降って湧いた疑問を口にした。
「……ヨシュアは、どうしてそこまでしてヒロを守ったんだ?」
 当然想定される質問だったか、ワンズは口元に軽く笑みを湛えつつもその問いには何も答えなかった。ただ、こう言う。
「愚弟と仲良くしてやってくれよ、グラニの君。めっぽう強い伴侶殿も共に、是非ともな」

 その夜、妻と共に寝床に入りながら、ワンズは過去の記憶を思い起こしていた。年子の弟がちょうど声変わりをしたころだ。家の外に尋常でなく張りつめた雰囲気をまとわせながら突っ立っていて、いったい誰を威圧しているのかと笑いながらワンズが声をかけると。
 ――兄さん、俺、男が好きらしい。
 顔を俯かせたまま、まだ安定しないがらついた声でただそれだけ言う。その告白にどれだけの勇気が総動員されたかを悟って却って何も言えなくなったワンズをようやく振り返って、縋るような眼差しで兄を短い間見つめたあと、ヨシュアは無言でワンズの隣をすり抜けて家の中に入っていった。ワンズは、その数分に満たない時間を何度となくなぞり返しては、その後の弟の行動に符合させた。ヨシュアは生業の傍ら、教会に、特に孤児院に尽くす人間になった。何を持って神の慈悲に縋ろうとしたか、ヨシュアが言おうとしないのでワンズも問わない。そして結果的に、小さなヒロに多大な恩を施すことになって。
 同性を愛するという性的嗜好の告白を含めて、ヨシュアが家族を、周囲を裏切ったことなど一度もない。ワンズはそう確信している。だが、ヨシュア当人にはそうはいかないのであろう。一人でがんじがらめになっていないことだけ、祈っている。
「……ヒロとはどうなんだろうな」
 ワンズの呟きに、どうなのかしらね、と妻サシエが呼応する。
「あいつは割と、好きだと言ってきたやつを好きになる傾向だと思うんだがな」
「じゃあヒロはもっと押すべきね」
 くつくつと笑み交わして、互いの身体に寝具を引き上げながら、サシエが最後にこう言う。
「……悪童の血筋が顕れることなどないといいわね、本当に」
 懸念されるべき点があるとすれば、それだけだわ。
 ワンズは頷いた。その時は、王の判断も誤っていたこととなる。ヨシュアは自分を愛している人間を縊り殺すことになるのだ。そんな目も当てられないことが、本当に有り得るのか。
 ないといい。ワンズは目を閉じた。そんなことなど、ないといい。都合のいいほどの晴れ晴れとしたおしまい。伝え聞くおとぎ話のような締め括りを。伴侶の身体に寄り添いながら思う。俺に叶い、弟に望めないことなど、けしてないはずなのだ。