その日の昼下がり、クィリルは医者にかかって処方を書きつけてもらった。処方箋は表通りの薬屋でも受け付けてもらえるが、クィリルはきまって薬草学に詳しい神父ルロイのいる教会へ行った。教会には孤児院が併設されていて、少しでも子どもたちの足しになるように、という思いからだ。クィリルは信仰に重きを置いて教会に通う生活を長く過ごしてきたことから、孤児たちとも仲が良い。
中でも、16歳になったヒロとは特別気を置けない仲だった。ヒロは孤児の中でも最も見目がよく、何事にも物怖じしなかった。その境遇を思うと意外なほど、否、境遇がむしろそうさせたのか、とにかく溌剌としていた。幼い頃から、大きくなったら兵士になって王様の為に尽くすんだ、と公言していて、入隊が許される年齢となった途端軍に飛び込んでいった。少しは神父様に顔を出しているのかしら、と思いながらクィリルが礼拝堂を覗きこむと、ちょうど思い馳せていたヒロがいた。向こうもクィリルを見留めるなりぶんぶか手を振って駆け寄る。
「クー! 久しぶり!」
「まあ――驚いた。とても逞しくなったんじゃない?」
「そうでしょ。毎日訓練でくったくただもん! でも、軍じゃいっぱい食べさせてくれるんだ。ほら、見てよ」
そう言って腕の力こぶを見せるポーズをするヒロを見返して、本当に兵士になったのね、とクィリルは感慨深く言った。十代の成長のめざましさに目を瞠り、輝けるような美少年の迫力に圧倒もされた。笑顔一つで星が瞬くような煌めきを伴う。クィリルにとって六歳年下の彼は、小さい頃は本当に女の子みたいで可愛かったのに。
「クーも、調子がよさそうでよかった」
「ええ、最近はね」
「彼氏は優しい人?」
「やだ、あなたがそんなこと言うなんて――優しいわよ、よくしてもらってるわ」
少々照れくさく返事したクィリルに、よかった、とヒロは言葉を重ねた。その相槌の屈託のなさに、クィリルは却ってヒロを労りを持って見ずにいられなかった。クィリルの恋人リンはこのヒロに対して、警戒があって、ひどく冷たく、当たりが強い。リンだけではなかった。この街の多くの人がヒロに偏見を持っていて、そうせずにはいられない事情がある。
「ヒロ、あなた、軍隊で辛い思いをしていない? みんなよくしてくれるの?」
「騎士様達はともかく、兵士の階級は実力主義だもん。出自も何も関係ないよ。強い奴が正しいの! ……それに、神父様がいるし、孤児院のみんながいるし、ヨシュアもいてくれるもん」
大丈夫だよ、とあっけらかんとして言う。
「クー。俺、16になったんだよ。成人したんだ! 軍にも入れたし、給金でヨシュアの酒場にもいけるようになった。大きくなるっていいこと尽くめだって、俺最近特に思うんだよ」
「まあ……いいけど、飲みすぎちゃダメよ」
クィリルはそれだけ言って窘めるに留めた。孤独に苛まされ、偏見に晒され、ままならない環境に焦れては、早く大きくなりたい、と叫んだヒロの悔しさを知っているからこそだった。ヨシュアも、それを知っている。
街のカフェの店主・ワンズの弟ヨシュアは、以前から孤児院に目をかけ何かと援助をしてきた数少ない人間の一人だった。またその中でも、十年前孤児院に入ったヒロに偏見を持たない更に稀少な人間でもある。若いのに老成していて、平民ながら鍛えた膂力もあり、少々荒っぽい者の集う酒場を経営するに足る度量を持った青年だ。
「ねえクー、兵士のサトリを知ってる? 俺より後に入ってきたのに、もうめっちゃくちゃに強いんだ」
「ええ、知ってるわ。街でも噂になったもの。ナサヤのことも知ってるわ」
サトリの伴侶の名を出すと、ヒロの瞳が俄然輝く。二人きりなのになぜか声を潜めて、男なのに子供を産むんでしょ、と囁く。
「すっげえなあ――いいなあ!」
「いいなあって、あなた」
「ねえ、クー。俺、男を好きな男だってことは知ってるだろ。そんな俺には夢のまた夢のような話だよ、好きになった人が子供を産んでくれるってことはさ。いいなあ……俺も、ヨシュアが子供を産んでくれたらな」
夜。リンは、酒場のカウンター席で蜂蜜酒を傾けていた。惰性で杯を空けている様子に、調子はどうだい、と店主のヨシュアが問う。ぼちぼちだねえ……とあらぬところを見ながら答えたリンに笑った。
「忙しくてさ。高慢ちきな連中に頭下げまくって頭痛がするよ。たまには気ままに朝寝がした……」
「あぁ、いらっしゃい」
ヨシュアの客を迎える口ぶりに、聞いてくれよ、とぼやきつつリンが何となく出入り口を振り返ると、うお、と小さく飛び跳ねた。――ご両人だ。
「二人そろってるところは初めて見たな――」
声を潜めて珍し気にリンが言う。入店早々に注目されている二人組は、何かと噂の的になる最近入国したばかりの連れ合い同士だった。入隊試験で兵士の大半をぶん投げて修練場をざわめかせた新米兵士と、その伴侶である男にして子供を産むグラニ。サトリとナサヤだった。
「やあ、どうも。お子さんはどうしたんだい」
リンが聞くと、サトリの方が「子守りに任せてる」と短く言った。寄り添うナサヤは何かに気を取られたようによそを向いていて、どうした、とサトリが顔を寄せる。その距離が、所作が、いちいち近い。男同士でも本当に、夫婦なんだな、とリンは改めて感嘆した。いや、夫夫か。
「やけに若い子が飲んでるから、大丈夫なのかと思って」
ナサヤの言葉にリンも同じ方を向いて確かめると、不思議そうに言った。
「あいつはあれで成人してるから、問題ないはずだよ。十六だ」
ぱか、と呆気に取られたようにナサヤの口が開く。
「十六で成人……」
「お国じゃあ違ったのかい」
ヨシュアがそう聞きながらまず席に着くよう促すと、応じながら「エールを二つ」とサトリが注文した。すべり込むように、俺もお代わり、とリンがグラスを揺らす。
「俺のいたとこじゃ、二十歳で成人だった。十六かあ……十六で成人だったら、俺はここにいなかったなぁ」
……そうなのか、とリンが曖昧に相槌を打つ。ナサヤは物思いに囚われたように、こう続ける。
「ハオも、……サトリの子も産めなかっただろうな」
ぽつんとした意味深な呟きに、近くの席の客たちは密かに聞き耳を立てていた。サトリも伴侶の顔をじっと注視する。あまり感情の読めないサトリの表情の中に、考えたくもない、と唸りそうな陰りがリンにも見えた。
ヨシュアがエールを連れ合い二人に注いでやり、リンに蜂蜜酒のお代わりを出す。そのグラスを持って、まあ、とリンが空気を変えるように明るい声を出す。
「事情は知らないけど、現状には満足してるんだろ? あんた達、仲がよさそうだ」
ひとまず今宵の出会いに、とリンが乾杯を促し、三つのグラスがかち合わされた。めいめいに酒を煽ると、いくらか打ち解けた雰囲気になる。
「この酒場は初めて? 感想は?」
リンに問われ、サトリが改めてぐるり辺りを見渡す。
「冒険者が多い」
シンプルな感想だった。確かに、と頷くリンとヨシュアを見ながら、ナサヤだけが首を傾げる。
「冒険者って何をするんだ?」
ものを知らないことをあまり素直に表現されて少々面食らいつつ、そりゃあ、とリンが口を開いた。
「冒険を冒して報酬を得ているのはたいてい冒険者さ。一般人には危険なことを進んでやる連中だね。護衛や用心棒をしたり、厄介な魔物を倒したり」
「魔物を倒すのは、サトリのような兵士の仕事なんじゃないのか」
「確かにやってることは同じだな」
と、今度はヨシュアが応える。
「兵士は国王陛下の為に宮仕えをしているが、冒険者は個人的な名声が目的だ。同じ魔物を屠るだけの力がありながら、国家や陛下に仕えるでもない冒険者を利己的だと見る向きもあるがね」
「それでもこの国が冒険者に寛容なのは、国王陛下が元は冒険者だったからなんだ」
へえ、と驚いたナサヤと共にサトリも目を上げる。
「数奇な運命をたどった方なんだ。生まれた時から王城にいたわけでなく、二十歳の頃まで自らの出生を御存知ないまま外の世界を彷徨っていたそうだよ」
「……帰ってこられてよかったな」
ヨシュアが言って、本当に、とリンが頷いてグラスを揺らす。
「陛下のいなかった頃のこの国は、領地を守る結界魔法も不十分でさ。結界のゆるみから魔物が忍び込んできて、食われる人が後を絶たなかったそうだ。俺も、覚えてないけどそれで母親を亡くした口さ。でも二十年くらい前に陛下が帰ってきて、それまでに比べて結界が遥かに強化されて、その外に出ない限り魔物に怯える必要がなくなったんだ。のみならず善政を敷いてくださるし、素晴らしい方だよ。万々歳だ」
あらためて、陛下に乾杯、とリンが杯を上げる。
「……待て、二十年前といったか」
サトリが声を上げる。サトリは新米兵士にして、ひょんなことから国王を間近に見ている人物の一人だった。
「今幾つだ」
「四十近いはずだよ」
「……二十代かと思ってた」
サトリが呆然とつぶやくのに、リンとヨシュアが声を揃えてけらけら笑う。――そうなんだよ、あの方の外見は詐欺なんだ。
「若いし、女みたいに美しいだろ? 王族の血には美と不老の要素が流れてると見たね――」
カラン、と出入り口の鈴が再度鳴った。真っ先にそちらを振り向いたヨシュアが新たな客を見止めた瞬間、素早くリンにも視線を移動させて迎えの言葉を言い淀んだ。何気なく同じ方を見たリンの目が軽く見開かれ、――がたん、と唐突に立ち上がる。
新たな客はヒロだった。先客のリンに気まずげな顔をしている。ごめん、と口だけ動かしてヨシュアに告げるのがサトリとナサヤにも見えた。
リンは酒精によるふらつきを抑えながら懐を探って代金をカウンターに放り、じゃあねご両人、と素早く言い置いて席を離れた。ヒロがたじろいだように空けた場所にずんずんと歩み寄り、さっさと店を出て行ってしまった。
「……いらっしゃい」
「ごめん、ヨシュア。お客さん減らしちゃったかな。……あ、サトリもいる」
ヒロの登場に、ナサヤが伴侶の顔を窺う。同じ隊の同僚だ、とだけサトリは答えた。