図書館の前の公園のベンチに座るリンのもとへ、少年が一人やってきた。リンはその少年とはもう顔なじみになっていた。クィリルの住む集合住宅で、彼女の隣の部屋に住んでいる親子の子の方がその少年である。リンは駆けてきた少年が何か言い出す前にこう聞いた。
「具合が悪いのか」
「うん。ここには来れないから申し訳ないけど帰って下さいって」
少年は慣れた口調で言う。彼はクィリルに雇われたメッセンジャーだった。クィリルの調子が悪い時、職場である図書館にも同じ調子で彼が言付けに行くのをリンは知っている。リンは服を探って硬貨を一枚少年に握らせてやった。
ありがとう、じゃあね、とさっぱりとした様子で帰っていく少年を見送って、リンは少しばかりこみ上げてきた気鬱を強い呼気で払った。リンの恋人に、不調はままあることだった。うろたえるな、と自分を叱咤する。
見上げれば、出迎えるのは厚い曇天である。少し肌寒い。暖かさと寒さが交互に行き来する、春の手前。よいですか、リン。神父ルロイの言葉がよみがえる。一度心を病んだ人間は、春にこそ揺らぐのですよ。それをゆめゆめ忘れずにクィリルに接しなさい。
リンは王城の方向へ歩き出した。誰か屈強な戦士を一人、半日限り雇うために。
コココン、と耳慣れたリズムのノックがした。クィリルは寝台の上でゆっくりと起き上がる。部屋着を見下ろしてしばし考えてから、世間体を繕う億劫さが勝って結局そのまま玄関口まで歩み寄った。
「クィリル」
「リン、行けなくてごめ、」
「ごめんはなし。仕方ないことだろ? 気にしないで。……調子は?」
「……その……あんまり、よくないみたい」
耳に触れるリンの声が少し響いた。クィリルの前ではいつも調子を和らげているリンの声さえ。一人でいては曖昧でよくわからない不調が、他人と接するとはっきりと輪郭を帯びる。こみあげる不安にクィリルは目を細めた。
「リン、あのね、私、今日はうまくできる気がしなくて。あなたの言葉をちゃんと聞けてるかもわからないし……。前にも話したけれど、私、普通の人が聞かない声を聞くことがあって」
「うん、わかってる、無理して話さなくてもいいよ。……少しだけ上がってもいいかい」
(その男はどうせお前の身体が目当てだ、近づけるな)
気遣うリンの声に死んだ父の声が被さって、クィリルにしか聞こえない暴言を吐く。ああ、幻聴だ。これはただの幻聴だ。時々やってきてはクィリルを悩ませるけれど、いずれ去る儚い響き。
「……クィリル? だめかい? よっぽど具合が悪い……?」
呼ばれてクィリルは、うつろに恋人の顔を見上げる。亡父の声が、あなたを色狂いだと詰っているとはとても言えずに、身を引いて部屋に入るよう促した。――ここで待っていてくれ、と戸外に立つ誰かにリンが言う。何やら仰々しい荷物を持って上がってきたリンを不思議そうに見つめると、何でもないよ、とすっとぼけられた。
(何て言う思い上がり。今に神様に見限られるわよ、商売女!)
今日は誰かもわからないキンキンとした女の声もする。茶器がどこにあるのかわからなくなってしまって立ち尽くすクィリルの両の肩に手を添えて、リンがそっと部屋の中央に座らせてくれた。
「寒い? あたたかいものが欲しいなら俺が淹れてくるよ」
「……ううん、いいの。……ごめんなさい」
「何で謝るの。クィリルは何も悪いことしてないじゃないか」
「今日の私、変でしょう? 自分でもわかるくらいだもの……なんだか、動悸が耳に迫ってきて……」
「薬は?」
「うん、飲んだわ。多めに飲んだわ……でも、そうね、この季節は決まってこうだわ……」
リンの顔が近い。クィリルの声が蚊のように小さいために、一言一句漏らすまいと距離を詰めるからだ。
(惨めだ。ふしだらな娘を持って、まったく不幸なことだ……)
あぁ、父さん。あんなに尽くしたじゃないの。酒浸りになってしまった父さんのために、すり減らしてまで働いて、あんなに。でも、父を追い詰めた母の死から何かを取り返せたことはついぞなかった。ついぞ。悲しい記憶が次々打ち寄せてきて、視界が狭まる。呼吸が浅くなって、ぎゅうっと肩が縮まった。――キャハハハハハ、とつんざくような高笑い。
でも、症状は浅い方だ。父の声も女の声も、幻だと気づいている意識がある内は。リンの声も聞こえる。ああ、でも。私は病んでいる。私は病んでいる! ……いつ治るかもわからない。完治の概念がない病だ。息をこらして体と心の調子を聞きながら安静を保ち続ける日々が続くのだ。こんな私のために、若く前途あるリンの時間を使ってしまっていいものだろうか? 堂々巡りの思考が彼を前にしてなだれ落ちてきて、卑屈が一挙に押し寄せた。冷静を失って、身体が震え出す。
……その肩をそっと抱き寄せて、クィリルの身体に長い腕を回したリンが豊かなあかがね色の髪をそっと梳いて撫でた。リンはしばらく、辛抱強くそうしていた。なだめるような手つきに、縮こまっていたクィリルの体が徐々にやわらぐ。他人の体温の心地よさがなじんでいく内に、女の哄笑が遠ざかる。
「ねえ、あんたに見せたいものがあってきたんだ」
「……なあに?」
リンがクィリルを抱いたまま片手で引き寄せたのは、鍵穴付きの、繊細な彫刻で装飾された四角い象牙製の箱だった。リンが懐から同じ様式の彫刻の施された鍵を取り出して、鍵穴に差し込んで静かに回すと、かちゃり、と箱は開いた。
「……まあ、金細工職人の跡目がこういうものを持ってくるんだから、意外性はないよね」
などというリンの形ばかりの自嘲は、クィリルの耳に入らない。
「……綺麗……」
宝石箱だった。まるでおとぎ話に語られそうに典型的な、研磨され台座に収まった、装飾品として体裁の整った宝石の詰まった箱だった。おもむろにこれも懐から取り出した白手袋をはめたリンが、箱の中の小さく区切られた仕切りから一つ一つ取り出してはクィリルの眼前に掲げて示す。
サファイヤをセンターにダイヤモンドで囲んだリング。針の先のようなペリドットの耳飾り。なまめかしい真珠のブローチ。繊細に浮き彫りされた大理石のカメオ。
「……工房にもっともっとあるけど、あんた、近寄りたがらないから。一度は見せたかったんだ。俺の……とはまだいえないな、俺たちの仕事をさ」
「持ち出してよかったの? こんなに……」
「まあ、一発や二発は覚悟してるさ。それより防犯だね。こんな箱、後生大事に抱えて歩いてたら貴重品でございって喧伝してるようなもんだろ。半日、護衛に騎士を雇ったよ」
「さっき、外へ声をかけてた人……?」
「そう。帰り道もあるからね。あーあ、高くついた」
でも、見せたかったんだ。どうしてもクィリルに。
クィリルは宝石の煌めきにしばし見惚れた。亡父の呻きも掻き消える。それはいくつもの宝石であって、リンの心根の一番柔らかなところでもあった。クィリルは、煌びやかな装飾品を目の前にした若い女性にしては珍しい反応として、精一杯の慈しみを込めてその宝石たちを見つめた。見るほどに心が潤い、彩りを増していく。街の女たちがリンに殺到した訳も知れる。こんなに魅力的なものを扱っているのだ。
「あなたのしている仕事は、素晴らしいわ」
「今ごろ知った? よかった、一度は知らしめてやりたいと思ってたんだ」
リンのおどけた声音にクィリルは微笑んだ。笑えば互いの身体に振動が響く。ゼロ距離で長く過ごすのは初めてのことだったのに、これ以上なく安らいだ。
けれど、そんなクィリルの安堵に反し、クィリルの笑顔を何よりの着火剤とするリンは、導かれたようにクィリルの頤に手を優しく添えた。疑問符を湛えて見返すクィリルの瞳に刹那の間だけ躊躇って、ほどなく。
唇を重ねる。
――ココン、と軽いノック音に、クィリルは飛び上がった。あからさまに示された第三者の存在に恋人の体温を跳ねのけて、急いで距離を取る。リンは何かをなだめるように両手を上げてみせたが、謝罪はしなかった。わざとしているようなしかめっ面は、明らかに喜色を抑え込んでいる。
「そろそろ行くね。……こんなものまで持ち出したし、この際だから言っておきたいんだけど、俺は滅多なことじゃあんたを諦める気はない。……だから、あんたも俺を諦めないでね」
きっとだよ、と念を押したのが彼なりの区切りのようだった。次には打って変わって優しい声で「よく休むんだよ」と言い置いて、象牙の箱を抱えてリンが出ていく。遅いぞ、と聞こえてきた声は、どうやらリンの友人である騎士オズワルドのようだった。半日としても、護衛に雇ったら高くついただろう。
今更に赤くなってきた頬を抑えながら、胸にこみ上げる多幸感に押されるままクィリルは寝台に倒れ込んだ。じわりじわりと滲み出す涙には、あらゆる感情が詰まっている。次に会ったら必ず礼を言おう。仰々しい用意の上美しいものを見せてくれて、その心遣いがありがたかったと。触れるだけの淡いキスも嬉しかったと。そして、ああ、そうだ、諦めないと、誓うように真摯な声で言ってくれたことも――
寒さの緩みだした早春の、穏やかな沈黙が舞い降りた。クィリルは、自らの少し早くすこやかなトクトクとした鼓動に聞き入る。リンに愛されてしあわせだった。幸福感が甘く体を打ちすえる。閉ざした瞼の裏に、宝石の煌めきがいつまでも瞬いていた。今日この日のことを思い出として語り合って、次あることもまた思い出にして、そうして寄り添い合っていくのだ。ああ、リンとそうなれたらいい。いつまでも。いついつまでも。