王城の中のどこぞの歩廊にて。両手で書類を支え持ったエキドナは、自分がどこを歩いているのか皆目わからなかった。立ち止まって、大きく息をつく。歩廊は長く、抱えた書類は重たい。
「えーと、エキドナ?」
 知らぬ声に呼び止められて、怪訝にそちらを振り向くと。疲れて苛立ったエキドナの目力に圧倒されたか、両手を上げてみせる青年がいた。
「どなた?」
「エマニエルだ。ヒュウの友人で、ここの兵士の一人だよ。……何か困ってるようだと思って」
 ほら、と手振りで荷物をよこすよう示されて、エキドナはこれ幸いと半分以上エマニエルに持たせた。
「初耳よ。ヒュウに友達? 同僚じゃなくて?」
「友人だな」
 じゃあ私の事情もご存じでしょうね、とエキドナが呟いて、エマニエルは何も答えず微笑む。
「あの四六時中不機嫌面したあいつに友達なんて、菩薩か何かなの? よっぽど心が広いのね」
「はは。行き先は?」
 聞かれてエキドナが答えれば、エマニエルは思わず辺り一帯に視線を巡らせる。
「……またずいぶん見当違いな場所にいるんだな。引き返そう、こっちだ」
「どおも。――そりゃああたしは元娼婦よ。ここは王様のお城。暖かく歓迎されるとは期待してなかった。気に入らないことでしょうよ。……ここの女官やメイドはみんなお上品ね」
「というと?」
「道を聞くと、事細かに教えてくださるのよ。絶対たどり着かないけどね」
 エマニエルは苦笑した。
「城内の地図を頭に入れるまでの辛抱だな」
「……嫌味言われて嫌がらせぐらいは覚悟してたわよ。でもそもそも、よくここの人事があたしの採用を認めたもんだわ。そう思わない?」
「君を雇うことを承知するまで、ヒュウが無理を言ったんだろうなあ。聞かざるを得ないんだよ。軍はもう、ヒュウの戦力なしに出征は考えられないから」
「職権乱用ってわけね」
 言って、エキドナは一瞬遠くを見る。
「……あたしにそこまでする理由がまだわかんないけどね」
 隣のエキドナの横顔の美しさを眺めながら、エマニエルもうまい言葉が見つからない。一つ屋根の下に美男美女が二人きり(と、妖精ひとり)で住んでいて、なのに安易に連想される愛や恋の気配が一つもない。けれどヒュウは確かにエキドナに執着していて、エキドナもそれを理解してはいる。
「助かったわ。これが終われば帰れるのよ。あいつ、今日も遅くなりそうなの?」
「あぁ、出征に向けて最後の大詰めだよ。帰り道はわかるか?」
 エキドナはにっこりした。その華やかな顔立ちが笑むことでとたん匂い立つような色香に、エマニエルもうっかりつりこまれそうになった。
「帰りはわかるわ、ありがと――」
 その瞬間、二人の元へ突進してくる一つの気配があった。反応はエマニエルの方が早く、咄嗟にエキドナを庇おうと気配の方を振り向くと、
「エキドナ姉様……!」
 駆け寄ってきたのは、慎ましくも上等な衣服を纏った小柄な少女だった。恰好からして、貴い身分ではなく召使いと思われた。涙ぐんだ必死の表情で、エキドナに飛びつきしがみついて離れない。あまりの勢いに驚き言葉を失うエキドナの代わりにエマニエルが呼びかけた、
「ニノ、どうした、」
「エマニエルさん……! どうしてエキドナ姉様といらっしゃるの? 姉様、わかる? ニノよ、パーパ(神父様)の孤児院出身の……!」
 エキドナは目眩がする思いで、腕に抱えた書類のために少女を抱き返すこともできずにただただ見つめ返す。他人の口から発せられた、パーパ、の響きに打ちのめされていた。たちまち、記憶は過去に立ち戻る。
 もう何年になるだろうか。夜と朝のほんの境、神父の目を盗んで教会を出ていこうとしていたエキドナに気づき、引き留めようとその服の裾を握りしめ、泣きじゃくっていた少女がニノだった。そのときニノは、種違いの弟妹の下の子と同い年の九歳だったはず。ニノはしゃくりあげ、つっかえつっかえこう言った。
 ――いかないで、エキドナねえさま。パーパがとてもかなしむよ。
 ねえさまはいってはいけないところにいこうとしてるって、パーパがいってた。
 みんなもさびしがる。ニノもさびしい……おねがい、どうかいかないで……
「……ニノ、風の噂に聞いたわ。あんた、本当に男爵の家のお付きになったんだってね」
 困惑から立ち直ったエキドナがなだめるように声をかける。ニノはこくこくと頷いた。幼い頃、ニノの夢は高貴な人の家に仕えることだった。それなら言葉遣いもきちんとしなくてはいけないわよと言ったエキドナの言葉を真に受けて、目に付く年上の孤児をみな兄様姉様と呼んで改まった。その様があまり微笑ましくて、咎めたりからかう者もなくて。
「今は、男爵の奥様のお針子をしているのよ。今日はお付きとしてたまたま登城して……ああ、もう行かなくちゃいけない。ねえエキドナ姉様、なぜお城にいるの?」
「……あたし、今はヒュウに雇われてるのよ。メイドをしてるの」
「ヒュウ兄様……」
 エキドナの言葉を、ニノは神々しいまでの響きをまとわせて反芻した。
「私、もう行かなきゃ。暇を見つけて近い内に絶対に訪ねるわ。――またね、姉様。会えて、本当に嬉しい……!」
 輝く瞳と喜色に染まった頬でそう言い残して、あわただしくニノは去った。その背を半ば呆然と見送りながら、エキドナはエマニエルに聞く。
「……ニノを知ってんのね」
「ああ、時々、好色な連中にちょっかいかけられてるから」
「あたしみたいに助けられたってわけね。おたく、人がいいわ」
「よく言われる」
 エマニエルは苦笑いしたが、やがて気を取り直したようにエキドナに言った。
「帰り道、気をつけて。……ちょっと、ぼんやりしているようだ」
 そう指摘されても、エキドナは言い返す気力もなくエマニエルと別れた。届け物をようやく済ませて仕事を終えたエキドナは散漫として帰路に着く。途中、夕食の準備があると気づいて、市場に立ち寄った。
「エキドナ?」
 と背後から声をかけられて、うっそりと振り返ったエキドナは目を見張った。は、と苦笑う。――今日はいったい、なんなのかしら。
「ルカ……」
「やっぱり、エキドナだった」
 エキドナに声をかけた青年はほっとしたように眼鏡越しの瞳を緩めた。ルカという名前のこの青年も、ニノと同じく孤児院の出身だった。エキドナより二歳年長だ。
 ルカは、エキドナと久しぶりに会った事実への感慨が深すぎてなかなか言葉が出てこないようだった。幼かったニノはともかく、在りし日のエキドナが成人を待たずして行った先が娼館であったことを、かつての彼も理解していただろう。見覚えのある顔を見つけたからつい呼び止めたのだろうが、声なんかかけなきゃいいのに、とおっくうな気持ちになってきて、エキドナもまたまごついた。仕方なく、こちらから話題を振る。
「……今何してるのよ」
「僕? 僕は……あの、今度、本が出るんだ」
 控えめな口調にも誇らしげな気持ちが滲み出ていて、エキドナは軽く目を見開く。
「ああ、書き物が好きだったわよね、あんた」
「うん。元は印刷所に勤めていたんだけど、最近は執筆一本でやってて……やっと形になったんだ。あの、僕、ずっとエキドナにお礼が言いたくて」
「……どうして?」
「ええと、僕、結婚したんだけど」
 話の先が読めないなりに、エキドナは「あら、おめでとう」と一応の祝意を伝えた。ルカはますますはにかむ。
「……相手の女性と会って、僕はすぐ好きになった。でも色々と事情のある子で……離れてしまいそうになった時、思い出したのがエキドナの言葉だったんだ。……君は年少の子をあやしたりなだめたりするのがとても上手だった。とても気の立って手のつけられない子でも、コツがあるんだって……とにかくそれを思い出して、僕は彼女を引き止めることができたんだ」
 ルカの物言いは素朴で、工夫もなく、詳しい事情も知れなくて要領を得ずつまらない。物書きの発言とも思えなかった。だがルカの眼差しの熱心さが、エキドナの気を逸らさなかった。ルカは続ける。
「そのときから、君はどうしているんだろうって時々思うようになった。だから、今君に会えて……ええと、今は、どうしてるんだっけ」
「……ヒュウのところにいるわ。メイドをしてるの」
「そ、っか。……よかった。よかったよ、エキドナ。君の元気そうなところを見て……なんだろう、胸のつかえがとれた気がした」
 ルカの言葉に、エキドナは一瞬何も言えなくなった。ルカは、先ほど会ったばかりのニノと同じ表情でエキドナを見つめていた。すこしのかなしみと、大いなる安堵で。
「パーパは? 君の帰りを知っているの……?」

 エキドナがヒュウによって色街を出奔させられ、また彼のもとでメイドをやる羽目になっている経過は、クィリルやヒロあたりから神父に伝わっていることだろう。エキドナの心は奇妙に静かだった。神父はどう思っただろう、エキドナが苦界から戻ってきたことを。
 神父の慈愛の微笑みも、烈火の如く怒る様も、どちらも想像はできた。けれどどうにせよ、とエキドナは冷ややかに思う。過去のことだ。もう、取り戻せないこと。
 その一方で、思い知らされるのだった。年端もゆかぬ身で色街へ行くことで、あてつけのように傷を付けてやりたかった愛しい男はただ一人。けれどエキドナの預かり知らぬところで――
 その夜、ヒュウの帰りは遅かった。エキドナは食卓に座った状態でヒュウを迎え、放り投げるように言う。
「待たずにあたしだけ食べたわよ、雇い主様には悪いけど」
「好きにしろ」
 緋色の肩掛けを外しながら答えるヒュウも素っ気ない。その声の平坦さに苛立ちかけて、やがて思い直したようにエキドナは立ち上がって食事の準備に取りかかる。
 温め直した料理をヒュウの分だけ並べたら、あとは食べ終えるまでエキドナは自分の部屋に引っ込んでいたっていい。けれどエキドナはあえてヒュウの向かいに座った。まとまらない言葉の先を探しながらエキドナが黙り込んでいる間、ヒュウは食器を握って旺盛な食欲を見せる。がつがつと肉を口に放り込みながら、時折ちらりとエキドナの方を見て、ついにこう言う。
「うっとうしい」
「……なに?」
「視線がうっとうしい。言いたいことがあんなら言え」
 先を促されて、エキドナはかえって言葉を失う。今日、ニノとルカに会ったこと。どちらも涙ぐむほどの感慨でエキドナを迎えたこと。そうして思い知ったこと。自分が苦界に身を沈めることで傷つけてやりたかったのは神父一人なのに、他の孤児たちにも浅からぬひっかき傷を残していたこと――
 幼い頃のヒュウは、よく言いがかりをつけてはエキドナにつかみかかってきた。喧嘩になって、食事抜きの罰を受けて共に閉じ込められた小部屋の中で、とりとめもない言葉を交わした思い出だけがある。今思えば、幼いヒュウが心を開いていたのは神父だけで、その神父を熱っぽく見つめていたエキドナを目の敵にしたのかもしれない。その一方で、肌寒い小部屋の中で、ぴったりと寄り添った記憶もなくはない。炎の使い手としての素質が表出した後のヒュウが、心情を上回って物理的にも温かかったのだろう。
 回想はぐちゃぐちゃと前後して、エキドナは少し混乱した。結局口をついて出たのが、今日、ルカよりニノより前に出会った人物のことだった。
「エマニエル、っていった? 友達なんですって?」
「……それが?」
「書類運ぶの手伝ってくれたわ。よく仲良くなれたわね」
 ヒュウは咀嚼しながら眉間にしわを寄せた。しかめ面をしながらも、なにがしかの感情がこもった目でエキドナを見返す。その意味がわからないのと、思考がやや入り組んでいたのとで、エキドナは咄嗟に気づけなかった。エマニエルの名を出した途端に、ヒュウの表情が色づいたわけを。
「……あいつは、人がいいから」
 ヒュウがやっと絞り出したその一言には、万感がこもっていた。その種々の感情の一つ一つがとらえきれずに、エキドナは一瞬怪訝な顔をして。
 そして気づいた。エキドナは反射的にそれを口に出しかけて、けれどヒュウの顔色を見てやめた。ああ、そうなのね、……好きなのね、その人のことが。
 からん、と食器の音を立て、ごちそうさんとヒュウが立ち上がる。椅子の背にかけていた緋色の肩掛けを巻き付け直すのを見て、エキドナが目を丸くする。
「どこ行くのよ」
「酒場」
「……酒ならここにもしこたまあるでしょうが」
 起きあがれるようになってから台所を任されるようになったエキドナは、初めて棚の中を見たとき呆れかえった。食料品はろくにないくせに、度数の強い酒の瓶だけはふんだんにあったからだ。ヒュウはこの顔で酒豪らしい。
「歌を聞きに行く」
「歌?」
「城じゃ出征が近いせいで元気のいい軍歌ばかり聞かされてうんざりしてる。俺はとびっきり陰気なのが聞きたい」
 酒場では専属の歌姫が歌っている。可哀想に才能がないのか誰も聞いていないので、リクエストし放題だ。そんな物好きはヒュウくらいだったが。
 それかあるいは、とヒュウはちらりエキドナを見る。
「お前が今ここで歌ってもいいけどな」
 エキドナは呆れて笑った。
「昔から好きよね、あんた。人にしょっちゅう歌わせて……ああ、ルカにもさんざん楽器弾けってことあるごとせがんでた」
 孤児院の思い出がとめどなく流れ落ちてくる。思えば、音楽好きはヒュウの数少ないかわいらしい一面だった。罰を受けて閉じ込められた小部屋で、寄り添ったヒュウがエキドナにせがんだ。歌え、と今みたいに。寒さと空腹を紛らわせるために、エキドナもそのたび応じた覚えがある。いつもしかめ面で心をほどかないヒュウの気配が、歌を聴かせることで機嫌よく浮上していくのを肌で感じながら。
「歌えよ。なんでもいい」
「……陰気なのがいいんでしょ」
「軍歌以外なら何でも」
 どこか、ヒュウをここに引き止めておきたい気持ちがエキドナの中にわき起こっていた。それは大して特別な感情ではなく、人恋しさだった。昼間に会った人たちがエキドナの過去を揺さぶるようにひっかいていったから。ニノの涙混じりの笑顔。ルカの遠慮がちな安堵。ヒュウが恋をしている、やさしい男の気遣い。
 ヒュウは椅子に座り直して頬杖をつく。彼の求めに応じて、やがてエキドナの口をついたのは賛美歌だった。あのころ、親なしの子供たちは神の慈悲に縋って生きていた。正しくは、神の慈悲を信じる神父に。その神父がみなに教え、みなで声をそろえて歌った賛美歌。
 エキドナの少しハスキーな歌声に、ヒュウは目を細めて聞き入った。幼いあの日、歌は楽しみにして、慰めだった。とりわけヒュウにとっては、そうだったのだろう。数日すればヒュウは討伐に赴き、烈しい炎でもって魔物の死骸を山と連ねる。修羅へ赴く前の、貴重な穏やかなひとときなのだ、今は。歌いながらそうと気づいて、エキドナは少し神妙な気持ちになった。

 ヒュウの出征の日の朝。ヒュウは、仕立てたばかりのエキドナの普段着をにらみつけながら低い声でこれだけ言った。
「客を取るなよ。取ったら燃やす」
 エキドナは、わかったわよ、と肩を竦める。色街から下がってきたばかりの相手に口約束だけで心許ないだろうが、そう答えるしかない。エキドナが開き直っていると、ヒュウは目を細めてこう続けた。
「脱げ」
「……は?」