今や魔物討伐に欠かせない戦力の一人である魔法使いのヒュウについて、王城で働く人々の間にいささか戸惑いが走っている。彼は同性愛者ではなかったのだろうか。色街から娼婦を一人さらうように身請けして、住み込みのメイドとして働かせているという。男だけでなく女も範疇に入れる、多情な人間なのではないか。
 その元娼婦のメイドであるところのエキドナへのヒュウの執着が本物であると知れ渡る一つの事件があった。王城に出入りする兵士の中に、エキドナが娼婦であった時分の馴染み客がいたのだ。彼は好色そうな目つきで、城の中を歩いていたエキドナに粉をかける。
「滾るなあ、エキドナ。清楚なメイド服なんか着てよお」
「……あたしに触んない方がいいわよ」
 好色な兵士はぐいと近寄ることで歩廊の端にエキドナを追いつめる。エキドナは眉を顰めて身を縮めて声を荒げた。
「来ないでってば、ほんとにためになんないわよ」
「つれないこと言うなよ、ご主人様は出征中だろ? なあ、金は弾むからまたしゃぶっちゃくんねえかよう……」
 下心ありありの表情で彼はエキドナの肩に手をかけた――瞬間、ひゅっと言葉を失って勢いよく飛びのく。
「……あっ、あっづ、あっづう!! 熱、熱いいいい!!」
「――だから言ったでしょうが……」
 エキドナに触れた兵士の手は、熱した鉄板を掴んだようにひどく火傷していた。エキドナは同情しきれないといった表情で嘆息する。
「な、なん、なんっで……」
「当然ヒュウの仕業よね。あたしに『不埒な気持ちを抱いて触れ』たやつはみーんなあんたみたいな目に遭うそうよ。これ何で服には影響ないのかしら、さすが魔法ってとこ?」
「み、水、水ううう……!」
 痛みに涙目で駆けてゆく兵士の背中に、エキドナが声を上げる。
「医務室で魔法医にかからないと治んないらしいわよ、それ!」
 その忠言が聞こえたかどうか定かでないほどの勢いで逃げゆく相手に、エキドナは肩を下げた。諦めて辺りを見回す。好色な兵士の追及をかわしながら歩いていたら、いつの間にか見知らぬところへ辿り着いていた。厨房が近いのか、昼食をまだ摂っていないエキドナの鼻をくすぐる匂いがする。
 あてどなく歩いていると、そばの出入り口から下働きらしい少女が大きな籠を持って出てくる。ばちりと目が合って、これ幸いとエキドナから声をかけた。
「ねえ、正門はどっち?」
 少女ははっとしたようにしばらくエキドナを見返して、やがて籠を置くと腕を伸ばして彼方を指さした。籠の中には、下ごしらえの済んでいない野菜が大量に入っている。どうも、と平坦な声で返して、エキドナは少女の示した方角へ歩き出した。
 ……やがて望んだとおりに正門へ着いて、エキドナは厨房の方を振り返った。城内に勤め始めてからこっち、正しく道案内されたのはこれが初めてだった。表情を喜色に
綻ばせたエキドナは、わざわざ来た道を戻って、野菜籠を持って歩く下働きの少女に声をかけた。
「ねえ、ほんとに道案内してくれたのね」
 機嫌のいいエキドナの声の弾みようを聞いた少女は、先ほどと同じくじっと見返してくる。
「言われた通りにしただけ」
「この城も意地悪な女ばかりじゃないって知れただけでも収穫よ」
「……あたしは、ただ……」
 野菜の入った籠にちらちら目をやりながら口ごもる少女に、ごめんごめん、とエキドナはひらり手を振って。
「忙しいのね、悪かったわ。軍の帰還が近いもんね。礼を言いたかっただけよ、じゃあね――」
「……ヒュウと一緒に住んでるって、ほんと?」
 よく知った名前で引き留められて、エキドナは振り返る。改めて見た少女の瞳に湛えられた、隠し切れない輝き。
「そうよ。住み込みのメイドの扱いだから」
「恋人なの?」
 緊張したようにいう少女に、はっはは、とエキドナは声を上げて笑う。
「違うわ、そんなまっとうな表現されたの初めてだけどね。あたしなんか好みじゃないわよ、あいつは。何? ヒュウが好きなの?」
「す、きっていうか……」
 エキドナにずばり聞き返されて、少女の瞳が泳ぐ。しばし言葉に迷っていたが、改めてエキドナに目を遣ってこう言う。
「あの人、とてもきれいだから……目がいってしまうの」
「あー、まあねえ、顔はね」
「この辺りを歩いていた時、『なんか食うもんねえか』ってものほしそうにいうもんだから、あたしスープを一杯差し出してやったの。美味い、っていってくれたわ。去り際に『また頼む』っていうから、今でも待ってるのだけど、忙しいのか来ないの」
「へえ、待ってるんだ」
「だって、あんな顔……腹がくちくなって満足そうな表情ったらなかったわ。綺麗なのに、穏やかで、あたし目を奪われちゃった。ねえ、あの人どうしたら笑う?」
「小さい時も付き合いがあったけど、あいにく見たこと無いわ」
「……見てみたいわ」
 少女は強い意志を瞳に留めて囁いた。
「笑った顔を、見てみたい」

 ……時を少し遡って。
「ヒュウ、帰ったらまず医務室だ」
 魔物討伐からの帰還の道行き、全軍があと半日で小国レイヌの城下に着こうかという頃。伝令から言付けを預かってきたエマニエルが、馬上でぐったりしているヒュウに告げた。今回もいつもと同様に徹頭徹尾最大出力で魔法を使ったヒュウが、スタミナ切れを起こして騎士オズワルドの馬に担がれていた。いつもはヒュウを背負う役目を買って出るエマニエルが申し訳なさそうに手綱を握るオズワルドを仰ぐと、「今回も文句なしの功労者だ。これくらいはな」と軽く答えてやった。ヒュウは緩慢に顔を上げてエマニエルを睨む。
「……怪我はしてねえ」
「そのようだな。じゃなくて、呼び出しらしいぞ。エキドナにちょっかいかけた兵士が、次々ひどい火傷を負って医務室に駆け込んでくるそうだ。医務官がお前が何かしたんじゃないかって――」
「ああ」
 ヒュウは事も無げに答えた。
「貞操帯だ」
 エマニエルとオズワルドがそろって黙り込む。 
「のみならず触ったら痛い目を見るようにしておいた。また客を取り始めたら元の木阿弥だからな。……もう娼婦の装いはさせてない。あいつは俺の、ただのメイドだ」
 だから触ったやつが悪い、と言い切るなり、ヒュウは疲れたように脱力して俯いた。ふいに前方で、馬が悲痛にいななく声がこだました。

 エキドナは、厨房のそばにいた少女の最後の言葉が印象づいて、しばらく何も言えなかった。仕事も終えていたので、少女においとまするわと伝えて、またぼんやりしながら帰路を辿った。笑った顔を見てみたい、といった。まっとうだわ、と思った。そしてついぞ自分にはそのまっとうさがない恋だった、と神父の表情を思い起こす。あの人を笑顔にしたい、と思ったことはなかった。そしてどきりとする。自分の中にある神父への感慨が、どれもこれも過去形になっている。触れてももう、乾きかけの感触しか返らない。
 凪ぐのか、とエキドナは自嘲した。苦界に飛び込んでまでかの人の胸中にただただ爪痕を残してやりたかった激情が、和らごうとしているのか。自分の寝泊まりする家と、教会へと続く道へとの分かれ道に差し掛かる。もう、観念して神父の顔を見に行く頃合いなのだろうか。その時こそ、区切りのつく時だ――
 というしみじみとしたエキドナの物思いを、邪魔するものが視界にうつった。道端にしゃがみこむ人影である。酔っ払いがぐずぐずに座り込んでいる体勢に似ていて、色街でよく見た手合いである。こんな昼間からとは思いつつも一応、と後ろからそっと覗き込んでみると、その人影もぱっとエキドナを振り返った。
 涼しい目元の男だった。手元には何やら分厚い書き留め――手書きの植物類のスケッチが見えた――と虫眼鏡。エキドナを見上げるきょとんとした表情でいっそ幼く見えるが、年齢がよくわからない。
「……具合が悪い、んじゃないのね」
 あまりまじまじと見られて居心地の悪くなったエキドナがそういうと、ああ、と合点がいったような声が応えた。意外に明瞭として美しい、よく通る声だった。
「僕が倒れてるんじゃないかと思ったんですね。失礼、ここに酔い覚ましにいい薬草が生えていたのでつい」
「薬草なの、それ」
「ええ。僕はお酒は嗜みませんが、二日酔いにもいいんですよ。僕は薬草学者なんです、今日よそから着いたばかりで。教会を訪ねるところだったのですが――」
「――……ルロイ神父に?」
「はい。ルロイさんは、神父の職ばかりでなく薬草学にも造詣が深くていらっしゃるとのことで。是非勉強させて頂きたいと思って、はるばる来たんです」
 にこやかな青年の言葉を、エキドナは形ばかり微笑んで聞きながら、ふいに立ちのぼった記憶に呑まれた。

 孤児院にいた時分の記憶。エキドナが13歳の冬だった。夕暮れ時、ルロイ神父が少々難しい顔で教会の敷地内を歩き回ってヒュウを探していた。つい先ほど、薬草学者でもあるルロイの研究室と書斎を兼ねた私室――普段、孤児院の子供たちは立ち入り禁止になっている――が荒らされていて、部屋の入り口で子供たちが騒いでいるところへルロイが駆けつけた。パーパ(神父様)、と義憤に駆られた子供たちが、ルロイから聞く前に空き巣の犯人を告げた。ヒュウだよ、と口々に幼い声が飛ぶ。ヒュウがパーパの本をめちゃめちゃにしたんだよ!
 荒らされた部屋を検めたルロイは、急ぎヒュウを探した。元々問題行動の多いヒュウだったが、今度のこれは、と懸念する。敷地内を小走りに探し回っていると、パーパ、と高い声に呼び止められた。直前に聞いた義憤の声よりよほど冷静なその声に、ルロイは振り返る。
『エキドナ』
『ヒュウなら罰を受ける小部屋にいるわ。どのみち閉じ込められるんだから先に入っておいてやるんだって憎まれ口叩いてたわよ』
『ヒュウはお前には話したのですか』
『何を?』
 問い返されて、ルロイはゆっくりと首を振った。お前もみんなのところに行っていなさい、とエキドナに声をかけ、急ぎ小部屋へ向かう。エキドナは密かにそのあとをついて回った。
 果たして駆けつけた小部屋には、隅の方で膝を抱えてうずくまるヒュウがいた。エキドナは戸口に身を隠して目と耳で様子を窺う。ヒュウ、と呼んだ神父の声の穏やかさが意外だったか、ヒュウはすぐ目を上げた。ヒュウは深く傷ついた目をしていて、歩み寄る神父をきつく睨み付ける。
『あそこは立ち入り禁止といったでしょう』
『薬にはさわってない』
『本だって読んではならない』
 ルロイの静かな声が告解を促した。ヒュウはわななくように深く呼吸してから、何者かをなじるように呟いた。
『腹の中の赤ん坊を、なかったことにする薬もあるんだろ……』

 ――っはあ、と大きな呼吸と共に肩が震えた。目の前の青年の気づかわしげな表情に気付いて、エキドナは回想に自ら呑み込まれたのを自覚する。あまりに久しく忘れていたヒュウの深い悲しみが思い起こされて、しばし言葉が出なくなる。呼吸のうまくままならない喘ぎを聞きつけて、青年がぐっと歩み寄ってきた。
「……落ち着いてください、さあ、座って」
 屈むように肩にそっと手をかけられて、エキドナはあっと声を上げかけた。不埒な気持ちがあれば、火傷する。だが彼は、まじないに気づいた様子もない。深く染み入るような、くるみこむような優しい声でひたすらエキドナを気遣う。青年は首から下げていた紐をくぐって頭から外し、中央にぶら下がる小瓶の蓋を取った。
「これを飲んで。気つけですよ。苦くないから大丈夫、甘くしてありますから――」
 ほんの数口のその液体の薬を、エキドナはようやく呷った。薬っぽいけれど、青年の言う通り甘い。くどすぎて喉にひっかかることもなかった。丁寧な敬語、よく通る優しい声。具合の悪い人間への冷静な対処。ああこの人は、神父に似てる。初対面のエキドナにも丁寧に接し、そこに一切の下心がない。何かしらの感情が高まって、ぼろりと涙が出た。
「……っ」
「――どうも錯乱しているようですね。僕の常備薬だけでは心もとない、もっと用意のあるだろう教会へ行きませんか。ここから近いようだから……」
「っ、平気」
 エキドナはほとんど反射で高い声を出した。行きたくない。今は、断じて神父の顔など見たくない――
「エキドナ!」
 駆け寄る足音と呼ばわる声に、青年は戸惑ったようにその闖入者を見返した。エキドナも緩慢に顔を上げる。闖入者はエキドナと同じ孤児院出身のヒロだった。全力で駆けてきたのか、ぜいぜいと息を荒げている。お世辞にもいい知らせを持ってきたとは思えないその顔色に、エキドナは息を詰める。
「ヒュウ兄ぃが倒れた! 魔物の襲撃をもろに食らって意識がないって……」