「あとしばらくしたら俺はしばらくこの家を空ける」
「だから?」
 エキドナはほとんど挑発的に跳ね返した。
「掃除洗濯してくれるやつはいる。――ノッカー! ここへ来い、今すぐだ!」
 部屋の外へ向けて声を上げたヒュウに呼応して、程なくととととと、と歩幅のごくごく小さな小刻みな足音が近づいた。それを聞いたエキドナが「これは、」と目を上げる。
「はいはい、旦那。お呼びで?」
「見えるか」
 部屋の入り口に現れた30センチほどの体長の妖精を顎で指して問うヒュウに、エキドナはやや怪訝な顔をして「ネズミの動く音かと思ってた」と呟いた。
「……見えるわ。話してる。……これ妖精? 初めて見た」
「ややっ。旦那に匿われたお嬢さん、なぜあたしが見えるんで?」
 エキドナと妖精からの疑問に、ヒュウがまとめて答えた。
「妖精の作ったもんを食ったからだ。今のうちに自己紹介を済ませておけ、一回食っただけのエキドナからはじきに見えなくなる」
「ということは、お嬢さんはこれからもずっとここに住まわれるんですかい?」
 ノッカーの言葉に、エキドナが眉を顰める。
「冗談じゃない。あたしは戻るわよ」
「戻ったらまた魔女の呪いに炙られる羽目になるのにか?」
 ヒュウが非難がましく言えば、エキドナが並の人間なら竦みあがる程きつい眼差しで睨みつけてきた。
「言ったわよ、あたしにはお金が必要」
「払う」
 エキドナの語気の強さに、ヒュウが同じ気迫で迎え打つ。
「……労働に対する対価は俺が現金できっちり払ってやる。信じられないなら手付けをやる。短い期間で放り出しゃしねえ、お前に金が必要なだけの間、雇い続ける」
 だから。ヒュウは強い意志を瞳に込めて、ほとんど凄むように言った。
「ここにいろ」

 兵舎、昼食の席。顛末を聞いたエマニエルがしばし言葉を探して逡巡する間、ためらいのないヒロがねじ込む。
「ヒュウ兄ぃってエキドナが好きなの? 」
 ……よく聞けるな、とエマニエルが瞠目する間、咀嚼を済ませずにヒュウが口を開く。
「あいつには勃たねえ」
「なら、ますます何で? 俺は今の聞いてて、」
「――愛しているのかと」
 ヒロの言いかけた中途をさらって、エマニエルが引き継いだ。ヒュウは珍しく驚いた様子を見せて、一瞬エマニエルを注視する。そうそう、とヒロも頷いている。
「……愛ってなんだ」
 パーパ(神父様)の説教かよ、と半ば呆然としながらヒュウがつぶやく。
「俺はメイドを雇うって話をしただけだ。何で愛になるんだ」

「具体的な仕事の内容は?」
 ヒュウの家にて。あるじ不在の寝室で、寝台に身を起こすエキドナの傍らにクィリルが立っている。仕事を終えたクィリルが帰りに立ち寄ったのだ。
「……必要なものの買い出しと食事の用意。あと城にある研究室だかの整頓と雑事。洗濯と掃除は妖精とやらがやるそうよ」
「いいじゃないの。お給料も出してくれるというんでしょう? ヒュウは孤児院の出身じゃ一番の稼ぎ頭だわ、その点は心配ない。……ね、エキドナ」
 なだめるようなクィリルの口調に、エキドナは簡単には承諾できないという顔で自分の胸元を睨みつけている。
「……あいつは、どうして」
 黙っていれば惚れ惚れするほど配置の整ったヒュウの美しい顔立ちを思い起こしながら、エキドナが途方にくれたように言う。
「どうしてあたしにそこまでするんだろう」
 純粋に懐疑するエキドナの口調に、クィリルも少し困ったように微笑む。
「昔はよくつかみ合いしてたのにね」
「一方的によ。何かやたらつっかかってきたのよね、わけわかんなかったわ」
「しょっちゅう小部屋に閉じ込められてた」
「お腹はすくし寒かった。……でも、あいつのそばってあったかいの。火の魔法使いだから?」
「そうね。……その腕を見込まれて、今度の魔物討伐にも参加すると聞いたわ。また二週間か、三週間か……」
「その間、あたしに留守を任せるというのよ……なんだか全然わかんないわ、あいつ」
「エキドナ」
 クィリルに穏やかに声をかけられて、エキドナが目を上げる。クィリルはそっとエキドナの手を取った。
「ヒュウの言った通りにして。ここでメイドになるのよ。もう、色街へ行くとは言わないで。お願い」
 クィリルの声の懇願する響きに、エキドナは憂いを帯びた顔で沈黙した。
 エキドナがはっきりとした返答を返さずにいるうち、玄関からノックが聞こえた。エキドナがあえて蓮っ葉な態度で示す。
「……ほら、あんたの彼氏が迎えにきたわ」
「エキドナ」
「今はあたし達しかいなくても、成人男性(ヒュウ)の家よ。クーがここにいるのが複雑で仕方ないって顔してるじゃないの、あんたの彼氏。……早く行ったげなさいってば」
 クィリルは微笑んだ。
「孤児院出身の人たちは、私には家族も同然よ。だから協力するのが当然。甘ったるいこと言っているかしら、私。でも、それが本音よ。……またくるわね」
 ヒュウの家の入り口には、クィリルの恋人リンが腕組みしてクィリルを待っていた。中から出てきたクィリルを見て、腕をほどいて出迎える。
「前よりは顔色が良くなってきたわ、自分から食事するようになってくれた」
「今にあんたがつきっきりにならなくなってもいいようにして欲しいもんだけど。この家のあるじ(ヒュウ)は? ずいぶん遅いんだな」
「魔物討伐が近いからね――」

 その日も、魔物討伐に関わる人員の帰りは遅かった。主力の一人であるサトリを待って、ナサヤが我が子を抱えて兵士の修練場の入り口近くに佇んでいる。
 ナサヤは困ったような顔で足下を見つめていた。人間の膝丈ほどもない小さな存在――妖精だ――が、熱心にナサヤに声をかけている。自分を家事手伝い妖精として使役すればどんなに役に立つことか、加えて報酬も要求することはないと。
 抱えるそのお子様は長じれば強い力を身につけ、さいはての丘に住まうエルフの貴婦人を助けてくださることでしょう。いつかあの忌々しい悪童を打ち倒す力の一つになることでしょう。そのときに私もともに言祝ぐ栄誉に浴したいのです、グラニの方――
 ナサヤは沈んだ面もちで時折首を横に振ってみせた。断じて首肯するわけにはいかないと瞳に宿る意志は強い。妖精は身振り手振りを交えて情熱的にアピールを続ける。だがナサヤの態度は変わらない。
 十五分もそうしていたろうか。説得を諦めた妖精が煙のように消え去った。ほっと息をついたナサヤが――そこでやっと、少し離れたところから自分の様子を長く注視していた存在に気づく。
 エマニエルだった。ナサヤと目が合ったことに気づくなりはっと息を呑んで、急いで目をそらしてその場を離れる。その慌てようにナサヤが目を瞬かせている内、近づく気配があった。伴侶のサトリだ。
「ナサヤ」
「あ、ああ、お帰り、サトリ」
 急ぎ距離を取りながら時々こちらを振り返るエマニエルの背姿を見送りながら、ナサヤが呟く。
「――……なあ、あの人ってもしかして……」
 言われてサトリも、エマニエルの去った方向を黙って見つめた。

「ヒュウの家にも、妖精がいるんだろ」
 閉館間際の図書館の書架の前でのことだった。ひそめた声でエマニエルがそう聞いてきて、書架の背表紙の並びを眺めていたヒュウは即座に彼の家にいるメイドのアリサのことを思い起こす。気づいた、のだろうか。エマニエルがその正体に。
 見た目はほんの少女だが、ヒュウの見たところアリサは人間に見せかけた妖精かその類だ。どういう目的でか、エマニエルの家に潜り込んだ、人ならざるもの。
 人間の男に恋慕し、自身も人の姿を取って家に入り込み、果てに伴侶として誓いを交わす妖精はいる。だが、人間がたった一度でも不貞を犯した場合、人ならざる彼女らは人間をとり殺す。そんな事態になる前に、エマニエルにアリサの正体を明かして忠告することはヒュウには容易かった。
 だが先日初めて家を訪ねたときの彼の反応を見るに、エマニエルはアリサを大切にしている。ヒュウは判断するのを待った。アリサが取る姿への違和感もそうだ。成人男性の恋心を煽るには、あまりにもその姿形が幼い。いらぬ注釈をすれば、エマニエルに幼児性愛の嗜好は一切ない。
「妖精がどうした」
「……いや、まあ、……何でもないんだけど」
 ヒュウに質問で返されて、エマニエルは下手な濁し方をする。ヒュウは何気なくエマニエルの手元にある本を見て、軽く目を見開く。
「妖精の研究本?」
「……そういやよく知らないな、と思って、さ」
 言い訳がましい調子が自分でもわかるのか、エマニエルが目をそらしながら言う。何をきっかけに興味を持ったか薄々察しながら、ヒュウはやはりアリサの正体について言及することを先送りにした。料理がうまくてよく気がついて、本当に助かっている。アリサをそう評したエマニエルの無邪気と言っていいほど誇らしげな表情を思い起こして。
「遠征中は、留守を預けるのか。そのエキドナって女性に」
「ああ。……別に愛してないけど」
 ヒュウが憮然として付け足すと、エマニエルは吹き出した。さっきまでのぎこちなさが嘘のような様子だ。悪かった悪かった、と笑み混じりに深刻さのない謝罪をして、本の字の列に目を落としながら。
「初恋の話を聞いたことがない」
 と、楽しげな声で聞く。ヒュウが眉をひそめる。
「誰の」
「ヒュウの」
「……エキドナはそんなんじゃねえって」
「じゃあエキドナのことは関係なく。初恋は?」
 エマニエルの口調の穏やかさにヒュウは何とも言えない顔で沈黙していたが、ほどなく。
「……同じ孤児院のガキ」
「人生に深く影響した?」
 聞かれてヒュウは目を細める。それはもう、この上なく。ヒュウは男で、恋した相手も男。幼い時分でも、ヒュウがその意味を悟るのは早かった。……だから、エキドナにひどく当たり散らした。明らかな眼差しで神父に恋をしていた彼女に、八つ当たりのように。
「そいつの養い親が決まり孤児院を出ると聞いて、……気づいたら、火の玉が出た」
 それは別離の悲しみと喪失が引き起こした。立ち上る火の玉。孤児たちの悲鳴。神父の慌てた声。
 ――目覚めの日。哀れな一人の孤児の人生が一変するきっかけ。
「だから、……ある意味じゃ感謝してるけどな」
 そうでなければ、高名な魔女の目に留まることもなかった。修行もせず、出世もできなかったはずだ。そして、エマニエルにも、――
「俺もその初恋の君に感謝するよ」
 エマニエルが本に目を落としながら事も無げに言うので、ヒュウは怪訝に目を上げた。
「だってそのきっかけがあればこそ、俺も戦場でお前と会えたんじゃないか」
 屈託のない笑顔を浮かべたエマニエルの言葉に、ヒュウは喉が何かにつかえたように息苦しさを覚えた。……俺も同じことを考えていたよ、と軽々しく言えるほど、何気なさを装える気持ちではないのを改めて思い知らされて。
「……悪かったよ、からかったつもりはなかったんだけど。お前にしては特別扱いをしているから」
 エマニエルの言葉がエキドナのことを指していると気づくのに、ヒュウは一拍遅れた。
「特別扱いで、……執着すら感じるから、そうなのかなって」
 エマニエルは淡い笑みを浮かべていた。執着といういささかどぎつい響きの言葉も、彼にかかると凪のようだ。続く忠告の声の響きも柔らかい。
「エキドナのこと、気をつけてやれよ。どういう事情があったにせよ、やっていた仕事が仕事だ。……大事なら、守ってやれ」

 数日経つと、エキドナはもうずいぶん回復して外を歩き回れるようになっていた。
「お前が無理に戻った場合、娼館は爆発することになってる」
 などとヒュウが真顔で脅すので、忌々しく舌打ちしても色街には戻れない。魔女の呪いの残滓が残る身体を寝具の中で休める退屈な時間の間に、エキドナにはもう諦めがついていた。ヒュウが居丈高に命じ、クィリルがなだめすかした通りに、ヒュウのメイドとして身を落ち着けるしかないと。
「布が欲しいわ」
 娼婦をしていた時に着ていた服で市井は歩きづらい。普段着を仕立てる布が欲しい、と出勤前のヒュウに言えば、彼は黙って皮袋いっぱいにつまった貨幣をよこした。
「こんなに」
「手付けだ」
 好きに使え、と素っ気なく言って、ヒュウはさっさと登城した。軍籍の魔法使いとしては高待遇を受けているのだ。エキドナは商店街へ赴き、遠慮なく五着も仕立てた。
 勤めらしい勤めがないので暇で仕方がなかったが、クィリルの職場である図書館は入館証がないと入れない。神父のいる教会は言語道断だ。盛り場へ行く気も起こらない。結局は市場に赴いて、その日の食事のために食料品を買い込む。いつまでもクィリルに甘えられない、というくらいの分別はエキドナにもあった。
 娼館では客に料理を出していたので、調理に覚えはある。「ご主人様」の好みのことなども一瞬ちらっとよぎったが、初めて腕を振るった日は自分の好きなものばかり作って帰ってきたヒュウにも出した。ヒュウは表情さえ変えずに食卓に着いたが、
「うめえ」
 と一口食べるなりこぼすようにつぶやいた。エキドナはそれだけで、食事を用意した者への最低限の礼儀を見た気にはなった。あとは黙々咀嚼していたが、ヒュウはふいにエキドナに告げる。
「明日家具職人が来る。俺は遅いから立ち会え」
「家具職人?」
「お前のベッドだ。奥の部屋がお前のになるから、そろそろ俺に寝室返せ」
「ああそう。悪うございましたわね。……ねえ、衣装戸棚も欲しいんだけど」
 顔をのぞき込むようにして聞くエキドナに、ちっ、とあからさまに舌打ちして。
「この家に入る限りは好きにしろ」
 エキドナはにんまりと笑って身を引いた。
「じきにお前も城に上がる手続きになってる。制服が届くはずだ、受け取っておけ」
「……あの丈の長いワンピースをあたしがねえ」
 エキドナは食卓に頬杖をついたまましばしぼんやりした。新しい家具。新しい制服。ああ、本当に、
「あたし、ここに住んで、勤めるのね。ねえ、あんたって今でも男が好きなの」
「……嗜好はそうそう変わらねえよ」
「だからって、あたしをここに住まわせたら、絶対囲ってると思われるわよ。いないの、誤解されて困る人」
 エキドナのその言い回しはうまいものだった。好きな人でもなく、恋人でもない。誤解をされたら、困る人。
 ――守ってやれ、と囁いた緑色の瞳の穏やかさを、ヒュウは一瞬思い起こしただけなのに。ほら、いるんじゃない、とエキドナが呆れた声を出した。