「ヒロは甘い物、好きか」
 まるで子供にするような質問だったが、サトリからのいきなりの申し出にヒロは目をぱちくりさせながら応じた。王城の兵舎の食堂、隅の長机で昼食をとっていたところだ。
「ん? うん、好きだけど」
「じゃあ、これやる」
 といって渡されたのは、手のひらに収まるほどの小さな瓶に詰められた――。
「蜂蜜?」
「花の蜜」
「……それを蜂蜜っていわない?」
「蜂が集めてないから花の蜜だ」
「じゃあどうやって集めたの、これ」
「さあ」
「えっ何それ」
「とにかく渡した。好きに使え」
 といって去っていくサトリの背中をヒロはぽかんと見送ると、「家事手伝い妖精だろ」とまた他方から声がかかった。ヒロの向かいに座る彼は、悪童の血筋と忌み嫌われるヒロと一緒に昼食を取る数少ない人物、炎の魔法使いヒュウである。同じ孤児院出身のよしみだ。そのヒュウの右隣には、よくつるむエマニエルがいる。エマニエルはなぜだか、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。
「家事手伝い妖精」
 ヒロがオウム返しに言うと、ヒュウが「うちのブラウニーみてえな」と口にものを入れたまま補足する。呑み込んでから喋れ、と我に返ったエマニエルが母親のようにつつく。
「花の蜜は奴らの栄養源だからな。人間にも家事労働の報酬として要求する」
「へえ。……それを何でサトリが持ってるんだろ」
 その日に限らなかった。蜂蜜、ならぬ花の蜜入りの小瓶は、その後も月に数回、不定期に繰り返しサトリからヒロに渡された。サトリは昼食をかき込むと昼寝に向かうのが常なので、花の蜜の出所を詳しく聞く暇がない。小さな疑問は捨て置かれることなくヒロの中に留まり続けた。
 しかしある日の夕暮れ、ひょんなことから機会を得た。年に二度の魔物討伐の時期が迫り、討伐に加わる兵士は前準備に大わらわで退勤の時刻が遅くなる。新兵にして国一番の実力を誇るサトリも例外でなく帰りが遅くなったが、定刻にその彼を迎えに伴侶が赤子を抱えて訓練場にやってきたのだ。男にして子供を産む――グラニと呼ばれる――数奇な男性、ナサヤ。この人に聞けばいいじゃんか、とヒロは手を打った。
「――あの、ナサヤ」
 訓練場の出入り口付近、赤子をあやしながら中の様子を窺っているその青年に近づいて、ヒロは声をかけた。声をかけてから、そういえば人の奥さん(?)に軽々しく声をかけていいものなのだろうかと今さらに思ってしまった。しかし相手が人懐こい笑顔でこちらを向いてくれたので、まあいいかと仕切り直す。
「サトリを待ってるんだよね」
「ああ、うん。出征が近いだろ、ちょっとでもと思って。……何か?」
「あ、あのさ、旦那さんによく花の蜜を瓶入りでもらうんだ、すごく美味しくて感謝してるんだけど、花の蜜であって蜂蜜ではないとか厳密なこというから、じゃあ出所はどこなんだろーなーって……」
 黄昏時の限られた明るさの中でもわかるナサヤのきょとんとした表情を見ながら口に出してみると、なんて些細なことなんだろうとヒロは途中から少し恥ずかしくなってきた。だがナサヤは、ああ、と納得したように頷いて、赤子を抱き直しながら答えてくれた。
「花の蜜は、妖精がくれるものなんだ」
「あ、ヒュウ兄ぃ……――っていう人がいるんだけど――その人も言ってた。え、でも、人間の方から報酬で渡すものなんじゃなくて……?」
「――俺はグラニだから」
 それを言った瞬間、ナサヤの表情からうかがえる無条件の人懐こさや爛漫さが少し翳ったようだった。いい加減迫ってきた夜の闇のせいだけではない。
「妖精は、グラニには好意的だ。普通の人間がするように、新鮮なミルクや蜂蜜を報酬にしなくても、家事労働をタダでしたいと申し出てくるくらいだ。俺はそれをすべて断ってるんだけれど、時々これだけでもといって置いていくのがその花の蜜だよ。ごめん、俺はそれを食べる気にはどうしてもならなくて……捨てるのももったいないから、サトリに頼んでるんだ」
「……そう、なんだ。……どうして、断るの……? タダで家事やってくれるっていうのに」
 ナサヤは、腕の中の我が子に目を落として柔らかく微笑んだ。そしてそのまま目線を下げた状態で、ぽつりぽつりと話す。
「妖精は、世界のさいはてにある聖なる丘に住まうエルフの貴婦人を慕う。ヤハン、といったかな。……ヤハンには悪童を諫める役割があるって。……妖精たちはグラニの産む子供が、そのヤハンを助けると信じているんだ。グラニは強い男に惹かれる。そしてグラニの子供は父親の血を色濃く引く。父親が強ければ、その子供も強くなる。サトリの強さは知っているだろう?」
「うん。……この国で一番だ」
 ヒロが正直に言えば、ナサヤは少し笑みを深めた。誇らしいが、そう断じていいかわからないといった曖昧さがあった。
「……グラニの子が父親同様に強く成長し、やがて悪童を倒してヤハンの負担を減らすだろうという期待があって、我こそはその手助けをしたと誇りたいのが妖精たちの本音だ。……俺もサトリも、そんなことは、」
 ナサヤは言いかけて、そして結局言葉を継ぐことはしなかった。やっと、彼の伴侶――サトリの姿が見えたからだ。
「サトリ」
 思いやりに満ちたナサヤの呼び声に、それに応えて歩み寄るサトリの眼差しの穏やかさに、ヒロはさまざまなものを感じ取った。ヒロは彼らの馴れ初めなど知らない。けれど、妖精たちの無邪気な思惑など撥ね付けるほど、作為なく、当たり前に惹かれ合ったのだろう。
「……ヒロ、ごめん」
 ――悪童といえ、父親のことなのに。今さらなことを自覚しているのだろう、後ろめたげにナサヤが困ったような笑みで謝る。ヒロは金色の瞳を細めた。

「ってことなんだって」
 明くる日の昼食時、再び兵舎の食堂にて。「花の蜜」にまつわる顛末を聞かせたヒロに、ほおん、とヒュウが頬杖を突く。
「タダ話には裏があるってわけか」
 ヒロからもらった「花の蜜」の瓶を手の平に転がしながら、ヒュウが無感動に呟いた。やはり彼の傍らにいるエマニエルが何とも言えない顔で同じ瓶を注視している。
「とはいっても羨ましい話ではあるな。……俺も食事を作ってくれる家事手伝い妖精が欲しい。紹介してくんねえかな」
「そういえば、エキドナどうしてるの? 具合よくなった?」
 ちっ、とヒュウが軽く舌打ちしてから答える。
「冬の母猫みたいに毛ぇ逆立ててピリピリしたままだ。クーしか近寄らせねえんだ。俺の家だってのに寛げねえ」
 ……そうは言ってもお前が引っ張り込んだんだろ、とヒロとエマニエルが目線を合わせる。彼の性的嗜好(男である)を知っている二人ではあるが。
「エキドナのご飯、まだクーに作ってもらってるの?」
「いや、今日は遅番とかで夜はいないから……」
 と、ヒュウがちらりエマニエルを見る。あぁ、と心得たようにエマニエルがヒロに言った。
「そういう事情を聞いたから、俺の家のメイドにヒュウとエキドナの分も晩飯を用意してくれるよう言付けを届けてあるよ。このあと帰りに、俺の家にヒュウが寄るんだ」

 アリサ、とその少女の名をエマニエルが呼んだ。
 ヒュウは退勤後にエマニエルの住まいに寄り、彼が玄関口で彼のメイドを呼ぶのを聞いていた。メイドは十五歳の女の子だという。このごろ、二つ年上の娼婦を家に引っ張り込んで囲っていると専ら噂になっているヒュウだが、二十七歳のエマニエルもなかなか……何と言うか、とヒュウは密かにため息をついた。誓ってそういう趣味じゃない、とエマニエル当人は言うが、口さがない人々はいるのだ。
 紹介するよ、とエマニエルが言ってきかなかった。いいよ別にとヒュウがすげなくいっても聞かない。まだ十五なのに、料理がうまくてよく気の付く性格で、とても助かっているのだと――
 はたしてそのアリサという少女は玄関口に現れた。一見したところは想像した通りの、メイド服を身にまとった成長途上の背丈の少女だった。ヒュウとアリサの視線が交わった瞬間、アリサの表情が微かに歪んだのが先だったのか、ヒュウが怪訝に眉を顰めたのが先だったのか、日暮れ時の暗がりのためによくわからなかった。
「いきなり言って悪かったな、アリサ。二人分の食事の用意はできたか?」
「――はい、もちろん。ここに」
 エマニエルが声をかければ、アリサはすぐに愛想のいい声で応じた。その如才のなさに、ヒュウは目を細める。
 アリサは取っ手と蓋のついた一抱えの籠を差し出した。中にはエマニエルが言づけた二人分の食事が入っているのだろう。これを受け取ってしまえばヒュウがここに留まる理由はもう無い。ヒュウは口を開いた。
「エマ」
「ん?」
「こないだ貸した本返せ」
「っえ、今?」
「今すぐ」
「俺まだあれ読み切ってな……」
「用が済んだらすぐ戻す。早く」
 断固とした口調でせかすヒュウに肩をすくめて、わかったちょっと待ってろ、とエマニエルだけが部屋の中に消えていく。ヒュウは無言の視線でアリサをその場に留めた。そしてエマニエルの気配が完全に遠ざかった瞬間、低めた声で。
「――お前、人間じゃないな」
 あからさまに睨み付けられて、アリサも不快そうに眉をひそめた。

 数十分後。ヒュウは自分の寝室の扉をノックした。今はエキドナが寝台にいる。魔女の呪いの影響は解呪してとうに抜けていい頃だが、伏せっている原因は気鬱によるところが大きい。今日はなだめすかして食事を食べさせてくれるクィリルもいない。エマニエル――正しくはそのメイドのアリサによる――から渡された籠を目の前に掲げて、ヒュウは肩を落とした。いつまでもノックに返事がない。
「……入るぞ」
 ドアを開けて足を踏み入れると、エキドナは寝台の上に上半身を起こしてはいた。小食が続いてやつれた感のある彼女が醸す、親しくおしゃべりができそうには微塵もない雰囲気に、まあそう意外でもなかったよとヒュウは怯まずベッドサイドの小さなテーブルに籠を置いた。
「飯だ。誰が作ったと思う」
 エキドナは応えず、少しうつろな目で怪訝にヒュウを見返すだけだった。クィリルが夜勤で不在だという事情は、エキドナも承知済みだ。
「人間じゃあない」
 ヒュウが思わせぶりに言うと、エキドナの視線が一瞬確かに籠に向けて走った。ヒュウは微かに笑う。
「……俺は修業時代、家事手伝い妖精が作る飯を食ってた」
「妖精が? 美味いもんなの、それ」
 エキドナは愛想なく言う。それでも久々に聞く声だった。エキドナが倒れた日、娼館の前で彼女と交わした言葉も少なく、ヒュウにはむしろ教会の小部屋で聞いた幼き日のエキドナの声の方が印象深いことに気づいた。一つ一つ克明に覚えている、彼女の言葉。
「師匠が家庭料理にうるさくて、妖精がしょっちゅう味を気にしてた。……これはどうだろうな」
 取っ手付きの籠の蓋を開けると、中には具だくさんのオープンサンドとスープの容器が入っていた。エキドナが素っ気なく言う。
「冷めてんのはイヤ。温め直して」
 ヒュウは遠慮なく舌打ちしたが、だんまりよりはわがままの方がいい。スープの入った陶製の容器を手に取り、呪文もいらない簡単な魔法でじわじわ熱を与えた。ヒュウは炎の使い手で、これくらい造作もない。そのうち容器から湯気が立つのに、エキドナが目を丸くしている。丸椅子をベッドサイドにずりずり引きずってきて、ヒュウはそこへ腰かけた。オープンサンドを手に取り、かぶりつく。
 しばし注意深く咀嚼して。
「……うめえ」
「何でそんなに怪訝に言うのよ」
「これを作ったやつの正体が詳しく知れてない」
「よく食べるわね、そんなもん」
 といいながらも、エキドナも匙を持ってスープを掬って飲んだ。軽く見開いた目が、美味しいじゃないの、と語っている。
「人間じゃないなら、何なの」
「……水の精か、風の精か」
 匙を遣わず直接陶器に口を付けてスープを流し込みながら、険しく目を細めてヒュウが言う。
「女のナリをしてる連中は、人間の男に懸想して家に入り込むことがある。挙句に所帯を持ったりな。……だが」
 ――男が不貞を働けば、憎んでとり殺す。
「そんな怖いことするのに、ご飯は美味しいのね」
 エキドナがぽつり言って、オープンサンドを少しずつ口にする。スープは飲み切ったが、あまり食欲は無いようだった。その様子をしばし眺めていたヒュウは、ベッドサイドのテーブルに頬杖をついて言う。
「……エキドナ」
 能面のような顔で伏せってばかりいたエキドナが、身を起こし、素っ気なくも言葉を発して、進まないながらも食事をしているところを見たら、ヒュウの中にも安堵らしいものが生まれた。日ごろエマニエルが、研究だなんだで思い切り寝不足の顔で現れるヒュウを見るたび「十分に寝ろ」「ちゃんと食え」と母親のようにうるさく言う感情が理解できたような気がした。親しい人には健やかに過ごして欲しいのだ。エマニエルはヒュウにそう思ってくれる。そして今ヒュウもまた、エキドナに。
「お前、種違いの弟妹に送金してんだってな」
 エキドナの眼差しが揺らいだ。ヒュウの目には、険しくなったようにも、なのに崩れ落ちそうに潤んだようにも見えた。――幼き日、食事抜きの罰と共に閉じ込められた教会の小部屋で、ヒュウは正直にエキドナの言葉を信じた。エキドナが色街へ行くのは、恋慕する神父を手ひどく傷つけるためだと。そんな身勝手で感傷的な理由で、自ら苦界へ行くのだと。そしていつかは帰ってきて、その傷を癒すのだと……。
「……そうよ」
 答えるエキドナの声は細くも鋭かった。
「だから、あたしにはお金が必要。あんたが娼館で何を話したか知らないけど――」
「俺は城に研究室を持ってる」
 エキドナの声を遮って、ヒュウが言った。
「お前、俺のメイドになれ」
 エキドナは絶句して、信じられないものを見るようにヒュウの方を向いた。
「……あんたのメイド? あたしが? ――娼婦のあたしが、王様の城に出入りするって?」