小さな王国レイヌの城下町の中心にはカフェがある。ワンズといって、若いが腕のいい店主が妻のサシエと共に切り盛りしていた。座席は15席ほどだが気軽な立ち飲みスペースもあって、カフェはその性質上、うわさ話のるつぼとなる。
「こないだ入国した二人組、本当に婚姻しているんだとよ」
 仕事帰りに必ずエスプレッソをダブルで頼む男がこう切り出す。「男同士でか」とワンズが受ければ、しかもよ、と身を乗り出してくる。
「子供がいるんだぞ。ちょっと前まで片方の腹が大きかったと産婆のジノ婆さんが証言してるって話だ。赤子は確かに婆さんの手で取り上げたとよ。遠い昔にそんなおとぎ話を聞いたがね、本当にいるとはな」
「おとぎ話じゃないわよ」と、ワンズの妻のサシエが男から空のカップを受け取りながら言う。「ジノ婆が言うことには、グラニというそうよ。もうとても数が少なくなったけれど、男ながら子供を産む性質を持った人間が確かにいるのだって」
「ほおん、珍しいこったな」
「珍しがってるのはこちらばかりじゃないらしいわよ」
 サシエの言葉に、エスプレッソの代金をやりとりしていた店主と客の目が向く。
「ヒロがいうには、カラクルを知らなかったのだって」
 カラクルの性質を説明するなら、剣士に剣がなければ成り立たないように、カラクルがなければ魔法使いは成り立たない。全ての魔法の素で、不可視の鳴子とも呼ばれる。その名の通り、魔力を行使するとカラカラクルクルと軽く高い音を聞く者もあるという。その音をどれだけ明瞭に聞き分けるかで、魔法の素質の有無がわかる。
 小国レイヌは、魔物の跳梁跋扈する西の大陸に位置する。人の住む地帯から魔物をせき止めるのは結界の魔法で、その魔法も無論カラクルによって作用する。レイヌの場合、結界は国王自身が張り巡らして民を守っている。
「結界がなくても暮らせるところから来たんだなあ……」
「――何の話?」
 しみじみと呟いた男の隣に立ったのは、長身の若い男だった。やあリン、と口々に挨拶が飛ぶ。リン・メイスフィールドという王室に出入りする金細工職人の跡取り息子で、こちらもカフェの常連。
「仕事の首尾は?」
「上々さ。三日がかりのデザイン画が一目でおじゃんて程度だよ。ジュースちょうだい」
「クーは?」
 リンがわざと歯をむき出しにしてみせると、「男も子供を授かるってのに!」と客の男がげらげら笑いながら出て行った。クーとはクィリルという人名の略で、この街に住む若い女性である。リンが熱心にカフェに誘っているが、あまり来てくれないらしい。閑話休題。
「あぁ、男同士のご両人のことか」それなら知ってるよ、という調子でリンが言った。「王城に届け物をした時に聞いたんだけどさ。旦那の方は、っていえばいいのかな、軍に入隊したよ。恐ろしく強いんだって話だ。入隊試験であんまり勝ち進むもんだから、お偉方が面白がってさ、その場の兵士を端から端まで投入したら使ってた模擬剣が折れて、そこからどうしたと思う? 今度は素手でぶん投げ出して、結局ほとんどの兵士を片づけちまったんだってさ」
「強いのねえ」
「おかげで初っ端から異例中も異例なことに、国王陛下にお目通りかなってさ」
 へえ、と店主夫妻が前のめりになる。国王フェルステッドはとりわけ城下町からの支持が高かった。主に、不惑も近いというのに時を止めたように若く優れた女性的な容姿において、女性票は特に多い。だがそれも善政を敷く政治手腕と、魔物を阻む結界の使い手としての能力あってこそである。好奇心の高い性格から逸話も多く、好意的なうわさとして日々流布されている。
 ――そなた、子を孕む男と契りを交わしたそうな。
 王座の前に屈強な新兵を呼び寄せて、国王はおもむろに言ったそうだ。
 ――そのように珍しき姿、腹の大きな内になぜ見せに来ない?
「陛下も無茶を仰るよ。入国した時にはもう臨月間近だったって話だから、新居を整えてるうちに産まれちまったといえばそれまでなのにさ、旦那は何て言ったと思う?」

『――二人目も考えておりますので、その時にご覧に入れましょう』

「ってしれっと申し上げたんだとさ。陛下は大いに気に入って、軍の明るい展望を祝して金一封つかわしたそうだ」
「期待なさっているんだろうよ。それだけ強ければ、魔物討伐にも駆り出されるだろうからな」
 小国レイヌは半年に一度、軍をあげて大規模な魔物討伐を行う。魔物の繁殖は早く、見過ごしていれば結界を消耗するほどの勢いで、討伐は国家の存続がかかる一大事だ。魔物については抜本的対処が待たれるが、ここ百年停滞している。
「いっそカザも倒してくれないかなあ、旦那」
 暴虐非道の悪童カザ。寝る前の子供にカザの話をしてはならない。必ず悪夢を見るからだ。ここ百年の魔物の蔓延りようには、原因としてカザが大いに関わっている。遠く地の果ての丘の上に住まうエルフの貴婦人への恋慕を拗らせたのをきっかけに、下界を魔物ののさばる阿鼻叫喚の地にしたのがカザだ。神々とエルフの貴婦人への挑発に、道ならぬ術を行使して地獄から次々呼び寄せている者達が魔物の種だという。地獄をルーツとする魔物は頑丈でしぶとく、屈強な戦士でなければ討伐は難しい。
「英雄はいつ現れるのかしらね」
 サシエがとりなすように呟くと、ごめん、つい、とリンが目を伏せた。不老不死のカザの名は不吉なものとされていて、みだりに口に出してはならないことになっている。まあ、とワンズが気分を変えるように言った。
「急くなよ、リン。その内おやっさんがデザイン画を認めてくれるだろうし、クーとデートできる日も来る」
「あああ、うるさいな」

 クィリル・ハートネットは早くに母親を亡くして、妻の喪失に打ちのめされた父親の恫喝に長く苦しめられて心を病み、若い内から苦労を重ねた女性だ。その父親も程なく亡くなったが、気持ちの平穏はなかなか訪れず、時どき医者と教会に通う生活を続けていた。
 完治という概念のない病だった。症状が落ち着いて穏やかな状態の続く寛解を目指そうというのが医者の意見である。それはクィリルを若くして諦めの境地に歩ませた。人より早くに親をなくして、きょうだいもないから天涯孤独である。少しさみしいけど気楽だわ、という態度でいる。せっかくの豊かなあかがね色の髪を工夫して結い上げる気力もなく、灰色の服ばかり着ている。
 それでもこの頃のクィリルは少し上向いていた。自宅と職場との往復の他は月に一度医者にかかって教会で薬をもらうだけの生活に、時折カフェに行くことを覚えたからだ。
 カフェ通いのきっかけを作ったのは幼なじみのリン・メイスフィールドという青年だった。とはいっても、幼なじみらしく共に遊んだような記憶はあまりない。母の死と父のがなり声が混じり合い始める頃より前のことはおぼろげだ。
 とにかくリンは毎日のように足繁くやってきて、クィリルをカフェに誘った。新しい世界を見せようとする彼のおせっかいを億劫に思ったことがないでもない。それでもひょんなことをきっかけに飲んだエスプレッソは、とても美味しかった。それだけのことが、不思議と呼吸を楽にした。
 カフェに通う習慣が生まれて、やっとまともにリンのことを考えるようになった。柔和な顔立ちと高い身長、耳触りのよい優しい声で若い女たちの視線を集める金細工職人の跡取り。女たちの誘いを適当にあしらって、時々はそれなりに遊ぶ日々を過ごしつつ、心の奥底にいつも密かないらだちをすこしだけ抱えているように見えた。
 そのいらだちを押さえつけて、クィリルの前では精一杯声を和らげている様は不思議だった。会話が途切れそうになると街の噂話をねじこんでくる、少しの沈黙さえ恐れる懸命さも。
 否、その懸命さの理由はうすうすわかってはいた。リンはクィリルとの距離を縮めようとしているのだ。その接近を歓迎しているのかそうでないのか、クィリルは自分の本心を図り切れずにいた。クィリルの耳に入るほど数々浮き名を流している相手だ、という躊躇いももちろん含む。耳に入れてきたのはカフェの常連たちの一人だった。気を付けろよ、クー。
「あいつ、見境ないからな。財産家の娘のカタリナっていってな、客の娘にまで手を出す始末だ。こないだ親し気に腕まで組んでいたぜ」
 それに、誰もが安易に想像するほど色っぽい意図なんかないのかもしれないわ、とも思っていた。だって、憐れみかもしれない。憐れみだけかもしれないのだ。目の端に映った気の毒な女に声をかけずにいられないとか。それなら自惚れてわざわざ恥をかくこともない。卑屈に傾きかける思考を自覚して、意識して深呼吸をする。胸を張って前を見る。自分を励ますおまじないのような一連の動きを経て、こぼれるのはため息だった。リンはいい人だ。いい人だわ。それだけで、じゅうぶんじゃないの。

「福のない顔をしているな」
 王城の歩廊という誰もが居住まいを正すところで出会い頭にその一言である。リンは思わず顔を歪めて騎士である年上の友人を見返した。
「いきなりご挨拶だな」
「お前さんこの頃使い走りばかりだな、こないだも来てなかったか」
「生憎こちらの提案と予算がなかなか折り合わないんだよ」
 見積書を脇に抱えて手先に持ったそろばんで肩をとんとんと叩きながら言うと、オズワルドは心得たとばかりに答える。
「なるほど仕事も順調ではない上に、意中のお嬢さんも振り向いてはくれないと」
「オズワルド」
 わざと歯をむき出しにしてかみつくように呼ぶリンにも騎士オズワルドは笑って済ますだけである。
「幸運も心構え次第だぞ。欲しいものが手に入らないからといって子供のようにぶすくれていないで、大の男なら余裕を持たないか」
「……あんたにも想う女性がいるといったな、オズワルド」
 このままいじりまわされていても埒が明かないと思ったリンが矛先を向けると、オズワルドは落ち着いて断言した。
「いるとも。女神の如く崇めている」
「それは本当に信仰そのものか。触れもせず眺めているだけで満足か?」
「満足だ。そこにいてくれるだけでいい。存在さえしてくれるなら、俺の胸に差す明るい光そのものだ」
 別段誇張した風でもないオズワルドの声の調子に、渋い眼差しで聞いていたリンがやがて小さくため息をつく。再びそろばんで自分の肩を小突きながら。
「……俺はとてもそんな心持ちにはなれないんだよなあ。石でできているんじゃないんだから」
「リン。あまり明け透けな言動は控えろ。お前はこないだも財産家の令嬢に怖い顔をさせて」
 リンはオズワルドの忠言に苦笑した。

 クィリルは招かれざる客の唐突な到来に気付くより先に、甘い香水の匂いに取り巻かれた。退勤して、俯き気味に裏の通用口を出たところだった。
「クィリル・ハートネットはあなた?」
 平らな声にフルネームを呼ばれて、ああ私の呼びづらい名を縮めず呼ぶのはリンくらいなものなのに、珍しいなとどこかで思った。いきなり訪ねてきたその女の持ち出す話の主題がリンのことであったのも、偶然だったことだろう。クィリルにはとうてい着こなす勇気のない装いと濃い化粧で固めたその女は、クィリルを上から下へ検分すると、疑わし気に目線を合わせてきた。
「大いに疑問だわ」
 少なくとも馴れ合うつもりは一切なさそうなその声の調子に、クィリルも極力合わせることにした。真っ平らな声で聞き返す。
「何が?」
「飾り立てる甲斐もない人を、金細工職人の跡目が構いたがるのはなぜかしら」
 リンだ、と合点するなり、クィリルの中の何かが冷めていく。わざわざこちらを牽制にくるとは、暇なものだ。
「生憎だけれど、リンの心の内までは知らないわ。何が彼をどう行動させるかなんて、神でもないのにわかるはずがない」
「あのひとの優しさにつけこんでいるのではないの、憐れな灰色ネズミさん」

 ココココン、と小刻みなノックの音に、リンがきたとすぐ感づいてクィリルは寝台から起き上がった。その癇性な焦りに近いノック音は、クィリルに話をするとなると心がけて声を和らげているリンよりも本来の彼のイメージに近い。とうに日も暮れて、一人暮らしの女性の元を訪れるには少々遅い時間だ。ショールで部屋着を覆い隠してドアを開けると、わずかな隙間から男の手が戸板を掴んで少々強引に押し開けた。
「クィリル、ごめん」
 あまりに切実な調子の声のために、夕方怖い顔をしてやってきたあの女のことさえ含めてクィリルは彼を許したくなった。どういう経緯か知らないが、あの女がクィリルのもとへ来襲するに至ったことを、リンが本気で後悔している。悔いた瞬間に罪は消え去るという神父の言葉を思い起こしながら、理不尽に怒るよりも許しに身をゆだねたいのがクィリルの本音だ。体力も使わずに済む。それに、リンの弁解には続きがあるようだ。
「カタリナっていうお得意先の一人娘なんだ。注文にわがままが過ぎるお嬢さんで……適当にあしらっていたのがよくなかった。まさかあんたのところへ行くなんて」
「そうよね、恋人でもないのに。昼間、私のところへ毎日来るからよ、勘違いしても仕方がないわ」
「クィリル」
 呼び声は、切ないといっていい調子だった。なるべく自惚れた気配を消そうと細心の注意を払ったクィリルの言葉がそうさせたらしい。ドアがさらに大きく開かれて、夜風が吹き込んだ。
「不愉快な思いをさせたのは本当に申し訳ないと思ってる。でも、――だからこそ」
 畳みかけるような調子で迫ったリンが、ふいに深く息を吸い込んで会話の間を整える。クィリルはただ眺めていることしかできなかった。彼が決定的なことを言おうとしていると気付いても。
「もう二度とつまらないことが起きないように、俺たちの関係をはっきりさせないか。そして周りに知らしめたいんだ。あんたが俺の大事な人だって」
 未婚の身で若い男を部屋に上げては死んだ両親に申し訳が立たないないので、二人連れ立って教会に移動した。悩める人のために一日中開かれた礼拝堂は夜風を凌げて少しはあたたかい。長椅子の傍らに立つと、それまで脇に並んでいるだけだったリンがクィリルの正面に向き直る。リンが何か言い出す前に、クィリルから口を開いた。
「過分な心遣い、痛み入るのだけれど」
「なんだい、仰々しい頂き物でもしたみたいに」
 リンは大げさに嘆いてみせたあと、子供が許しを請うように「俺ふられるの?」と聞いた。そんなことないよ、と言ってもらいたいような調子に、クィリルは苦笑する。
「私のことが好きなの?」
「まだ言ってなかったっけ? 伝わってなかった?」 
「おおよそはね。どうして私なの?」
「よく気にかけてるうちにそういう感情に変わるっていうのは、珍しいことでもないと思わない?」
 疑問符で会話を交わす内、クィリルは少し俯いた。クィリルの一挙手一投足を全身全霊かけて見守っているリンには申し訳なかったが、これから考え考え発する言葉は、熱情を湛えた瞳を見ながら言えることではけしてなかった。
「心の内を外に表すのは、私にとってはまた別よ。……どんなに思っていても、失うものが増えるのは恐ろしいことだわ」
 カタリナによって久々に人の悪意に当てられて、仕事から帰って早々に寝付いた。横になって思ったのは、母を失ってみるみる弱くなった父のことだった。些細なことで轟くほど怒鳴り散らしてはクィリルを心底怯えさせ、それを繰り返す内に心を病ませるまでに至った。愛する人の喪失がそうさせた。不可避の摂理がそうさせたという事実が。
 同じ血を引く自分自身も、同じ轍を踏みやしないだろうか。恋をし、それを愛に育てようとも、失った瞬間に脆く瓦解し、自分の存在すら磨り減らすほど愛してしまったら。
「……そりゃあ」
 困ったようなリンの声が口火を切る。
「俺もあんたもいつかは死んでしまうよ。それは逃れようがないさ。でもクィリル、人生は生きている者のためにあるんじゃないか」
 香水臭い女の襲来と幼なじみからの気合の入った告白とで一挙に気疲れしたクィリルは、ほどなく申し訳なくも神の前を辞退した。そして帰って寝床について、リンの言葉を一つ一つ咀嚼してなじませる。家族をなくし、一度心を病んだ女として、どうしてもつきまとう卑屈が少しずつ溶け出していくのを感じる。
 ついで、カタリナのあてつけもなぞり返した。憐れな灰色ネズミと皮肉られたのに、連想したのは昔読んだ本の一節だった。懐かしい。もうすっかり本など読まなくなったのに、記憶とはいつまでも密やかに息づいているものなのだ。
 本の一節曰く、恋と憐れは一つ種。それならリンが自分に恋して当たり前だ、とクィリルは淡い笑みを浮かべた。母を失い、父に怒鳴られ、心を病んでいた頃のクィリルの憐れっぽさといったら、自分でも気の毒になるくらいだった。クィリルは身を丸めて足を縮める。リンを思った。昼日中に公園までやってきては、調子はどう、と律儀に毎日尋ねる優しい声を思った。
 どんなに熱烈な恋も、深い愛情も、永遠に継続することを約束しない。母が死に、父が死んだように。反面。どんなに闇が深かろうと、朝は来る。心は立ち直り、病が癒えていく。クィリルは弾かれたように枕から頭を持ち上げた。どちらを見るかなのだ。やがて日の沈む夜か。いつか日差しと共に明けゆく朝か。そのどちらもが、交互にやってくる人生なら。
 次の日クィリルは、いつものように職場の図書館の前にある公園のベンチでいつもより早めに昼食を平らげ、不思議に静かな心持でリンを待ち受けた。果たして彼はやってきて、「よく休めた?」と開口一番に気遣いはしたが、それ以外に聞きたいことがめいっぱいあると顔中に書いてあった。クィリルはいっそう大らかな気持ちになって、ねえリン、と珍しくクィリルの方から立ち上がって呼びかける。
「ちょっと確認しておきたいのだけど」
 クィリルのやたらと晴れ晴れとした笑顔に怖気づいて、リンが恐る恐る顔色を窺ってくる。そうしながらも、何だいクィリル、と受けるのはさすがだった。周囲はクィリルを呼びやすいように、クー、と呼ぶ。リンだけは頑なにそう呼ばない。クィリル、と発音のしづらいその名で呼ぶ。そのこだわりで、リンがクィリルに抱く気持ちがだいたいはわかりそうなものだ。そのはずだった。クィリルはずっと、見ているようで見ていなかったのだ。
「今は時々下向くこともあるけど、私の傷はやがて治るのよ。あなたが初め気にかけていたような憐れな灰色ネズミのクィリルはやがていなくなるかもしれないわ。それでもいいの?」
 挑戦的といっていい発言だった。リンはしばし目を丸くしていたが、やがて彼の中でもクィリルの主張が呑み込めたようだった。
「……あんたの言いたいことはわかるよ、確かに俺は、ずっとあんたを救いたかった。家業を継ぐ修行でひいひいしてるのに精いっぱいだった体たらくなのに、おこがましいことだけど。でも、あんたが生まれ変わったように元気になれたからって、当初のあんたを見失ったりなんてしないよ」
 でもまあ確かに、とリンも気を緩めたように笑う。
「その灰色の服は似合わないね、あんまり。もしあんたが着飾って出かけたくなるくらい調子がよくなったら、是非その手伝いをしたいと思っていたよ」
 リンは一度躊躇ってから、その手をクィリルのあかがね色の髪に沿わせた。くすぐったいほど優しい手つきに、息を呑む。
「……漆黒のオニキスの玉飾りをあしらったコームを差すとかね。金の髪飾りもいいな、特に赤に映えるから。金ならお家芸の見せどころだ」
 リンの声の真剣な調子に、クィリルは思わずはにかんだ。
「あなたが浮き名を流している理由が分かった」
「そうだろ。女は光り物に目がない上に、そこへ俺のような美丈夫が金細工職人の跡目とくればそりゃあ群がるさ。……冗談だよ、噂ほどひどくない。そうでなきゃ、こんなに堂々とあんたの髪に触れたいしないよ。後ろめたいことがあるのに気軽に女の髪を触るやつなんて、最低だろう?」
「そうね、浮気は嫌だわ」
 クィリルがくすくすと笑うと、リンは息苦しそうに苦笑いした。クィリルの笑顔が何より堪えると言いたげな、ある意味幸せな男の滑稽な佇まいだった。
「……あなたって、いつもどこにいるの?」
「どういうこと?」
「私から会いに行く場合、どうすればいいかってこと」
 リンは食い気味に即答した。
「カフェに来てよ」
「……うーん」
 あからさまに微妙なクィリルの反応に、えええ、と男はうろたえる。カフェは街の噂のるつぼ、噂の発信地だ。今この場でめでたく成就したクィリルとの仲を、街じゅうに大々的に広めてもらいたくて持ち出したのに。
「待って、待って、気が進まない? ワンズのコーヒーは美味いし、かみさんのサシエはあんたに親切だろ?」
「ご夫婦は本当にいい人たちよ。ただ常連たちが、私の顔を見るたび聞くの……その、あなたとの"進捗"を」
 それこそリンがあてにしていた連中だとはとても言えずに、それは確かに下世話だ、と急ごしらえの呪いの言葉を吐く。だから誘ってもあまりカフェに来ないわけだ、とやっと合点した。
「……まあ、あんまり気にすることないよ。俺を色狂いに仕立ててるのもそういう手合いだからさ。あんたが本当に嫌なら無理強いしないし、そうだ、仕事が終わったら公園で待っていてよ。昼間に都合を聞くからさ」
「私から会いに行くにはどうしたらいいかって聞いたのに?」
 うん、とリンが頷いて笑う。その子供のような無邪気さに、クィリルは密かに目を瞠った。
「足をせかせか動かしてこっちから会いに行くほうがいいよ。待っていてもそわそわして落ち着かないから」
 そんなのはこっちだって同じことよ、と反射的に言いかけて、クィリルは言葉によるところ以外で初めて実感した。この青年は本当にクィリルのことが好きなのだ。とろけるような笑顔でそんなことをのたまうほど。そして、毎日昼間に味わう、リンを待っている間のそわそわと耐えがたく落ち着かない感じをなぞり返して、クィリル自身もまた思い知らされる。クィリルもまた、リンに恋をしているのだ。彼を前にすると逃げ出したくなるような億劫な気持ちも、なのに別れるとすぐに恋しくなるばかばかしい相反も、すべて。

「来てくれて嬉しいわ、クー」
 クィリルがカフェに行くたび励まされるのは、サシエが必ずそう言って出迎えてくれるからだ。カフェの客としては新顔だし、同い年という共通点から親切に声をかけてくれる。リンと二人連れ立ってくるにはまだ勇気がいるが、一人でならこうしてたまにエスプレッソを飲みに訪れる。二人で行った方が仲が知れていいんだけどな、とリンは未だに口惜し気だ。
「それに加えて、リンが何て言ったと思う?」
 想い合う恋をしている者のお決まりの文句を口にするクィリルに、サシエは微笑ましくトレイを抱えて先を促した。何て言ったの?
「二人の仲睦まじさを他人に知らしめるに最たるシチュエーションは、結婚式なんだよ、ですって」
 ほおん、と店主ワンズが感心した声を上げる。結婚まで考えてるのか、青年。
「結婚するの?」
「わからない。自分では、職人の妻に向くとはとても思わないし」
 弁えたようでもあって、悲観的ともとれるクィリルの言い回しに、店主夫妻は黙り込んだ。クィリルはエスプレッソに口をつけて、おいしい、と静かに心から言う。
「……でも、先のことなんか気にしないと決めたの。一緒にいて幸せだわ。そのことだけ考えているっていうのも、若さじゃない?」
 そんなことをあえて確かめるような口調の中にこそ、クィリルが長年耐え忍んできた風雪の残滓があった。ワンズは目を細めて、幸せに不慣れなクィリルにこう声をかけずにいられなかった。
「俺たち兄弟の親父がよく言ってたけどな、青春は年齢じゃなく心がけ次第だよ、クー。君に比べたらずいぶん子供っぽいが、リンはあれでいいやつだよ」
 信じて身を任せるのも一興だ、とおどけてワンズが言うと、クィリルは微笑んで応じた。覚えたての恋に溺れることさえ慎重な彼女をくるみこんで、風雪を溶かすがいい。サシエは胸中でリンにそうけしかける。そして二人で、春の訪れを言祝ぐのだ。
おしまい。