クィリル・ハートネットという若い女性がおりました。愛妻を失った悲しみで酒乱となった父を養うため、擦り減るほど働き詰めになった末に心を病みました。その父親もこのごろ亡くなりましたが、それまでにクィリルは何もかもにひどく怯える性質になっていました。
 リン・メイスフィールドという青年がおりました。このうす茶色の瞳の背高な青年はクィリルの幼なじみでしたが、手を取り合って遊んだのは遥か昔のことで、恫喝する父親に怯えながら昼も夜も働く生活に青春の大半を費やしたクィリルにとっては記憶もおぼろな相手でした。
 けれどクィリルがどう思っているかはともかくリンは、今は図書館で書架整理をして働くクィリルの元へよくやってくるのでした。たいていランチの時間でした。医者に日光を浴びるよう勧められているクィリルが、昼休みはきまって図書館の前の公園にいるからです。
「カフェの店主のワンズは、若いけど人ができてるんだ。所帯持ちで、奥方はあんたと同い年なんだよ。ちょっと不愛想だけど、旅籠の女将みたいに情の厚い、良い女なんだ」
 わざわざやってきてこういう話をするリンは、どうやらクィリルを街のカフェに誘いたがっているらしいのです。億劫だわ、とクィリルは思いました。
 同じ年頃の若い男にカフェに誘われるだなんて、浮き浮きとした展開を想像してもおかしくはありません。けれどクィリルは恋をしたことがないのです。そして愛については、その喪失で父親を狂わせ打ちのめしたのをまざまざと見て、クィリルに怯えを植えつけました。心を波立たせないことだ、とクィリルは思っていました。その安寧だけが、やっとその生活を支えていました。
 図書館の書架整理の仕事は安く、家以外での飲み食いが経済的ではないこともクィリルをためらわせました。次に誘われたら、はっきりそう言ってしまおうとクィリルはうつろな目で思いました。
「"カフェ・ソスペーゾ"」
「え?」
 けれどその次の機会にリンは、クィリルの予想とは別の反応をしました。耳慣れない言葉を発してクィリルに首を傾げさせると、繰り返してみて、と同じことを言いました。
「"カフェ・ソスペーゾ"。カフェで注文するとき、そう言うといい」
 疑問符を目に湛えて見返すクィリルに、リンはつとめてやさしい声で言いました。
「きっと、あんたをすこし楽にするよ」
 クィリルは数日二の足を踏みました。あれきりリンはやってきません。もう来ないのかもしれないと思うとうら寂しい気持ちに駆られて、こんな私でもいつしか彼を慕わしく思っていたのだろうか、といつまでもリンのことばかり考えていました。物思いにいつしか飽きてくると、それで却って思い切りがつきました。軽い財布にへそくりを足して懐に入れて、街へ出ました。
 人の顔を見ればカフェの話をしてきたリンのおかげで、場所の見当はすぐにつきました。扉を開くと、カウンターの向こうでエプロンを付けた男が皿を拭いていました。店内はそれなりに席が埋まっていましたが、テーブルに着くより立ち飲みの方が安く済む、とここでもリンのおしゃべりが役立ちます。カウンター脇の立ち飲みスペースを指して目線で問い返すと、店主は鷹揚に頷きました。
 注文をする段になり、カフェ・ソスペーゾ、という知らぬ言葉を発した瞬間に、店主と他のいくらかの客の目線が興味深そうにクィリルを見つめました。途端始まった客のひそひそ声に委縮したクィリルを助けたのは、「承ったわ」というきっぱりとした女性の声でした。クィリルと同い年ほどの黒髪の美しい女性が店主の背後から現れて、「その注文におかしなところは全くないわ。安心して」とにこやかでなくとも真摯な表情でクィリルに言って聞かせました。「テーブルに座ってもいいのよ?」とまで言われて、それは恐縮しきりで断りましたが。
 聞き捨てならなかったのは、その女性が店主の隣を通り過ぎざま、リンよ、と店主に伝えていったことでした。ソスペーゾ、と聞きなれない単語をクィリルに教えたリンの名前は一切出さなかったのに、です。
 やがてクィリルの前に出てきたのは全く普通のエスプレッソで、クィリルは拍子抜けしましたが、立ちのぼる芳醇な香りに肩を緩めました。一口含んでみると、濃厚で、何て美味しいんでしょう。コーヒーといえば幼い頃のクィリルはまだミルク入りでないと飲めなくて、いつか本物のエスプレッソが飲めるようになるさとまだちょっと怒りっぽいだけだった父が優しく言い聞かせた記憶が蘇ってきました。嗜好品だが、うまいものはうまいんだ、と。
 シコウヒンてなあに、とクィリルが聞くと、そうね、とまだ元気だった母が言いました。お酒とかたばことか、まだあなたには関係ないけれど。――生きるのを、すこし楽にしてくれるものかしら。
「具合が悪い?」
 エスプレッソに涙を一滴落としたクィリルを気遣った店主に、クィリルは慌てて首を振ってカップをあおりました。
「いいえ。とっても美味しかった。ごちそうさま……」
 その言葉がお会計の合図になるのだと思ったクィリルは、財布を持ったまま数秒ただ突っ立っていたままでした。店主と、その妻と思われる女性が不思議そうな目でこちらを見ています。
「あなたはカフェ・ソスペーゾを頼んだのよね?」
 念押しする店主の妻に、どうやら何かの齟齬が生じているらしいことに気付いたクィリルは、咄嗟に言葉が出て来ず目を白黒させました。
「お代はいいのよ」
「そんな、払うわ」
「もう先に払っているの。リンが。カフェ・ソスペーゾっていうのは、そういうものよ」
 他の客が、昔そういうものがあったのさ、懐かしいなあ、と声をかけてきました。
「保留って意味なんだよ、ソスペーゾは。ゆとりのある人が一杯のエスプレッソに二杯分の値段を払って、あとから他の懐の寂しい人がそれを使って飲むんだ。いい文化だろ?」
 それにしても、と今度は店主が少しおかしげに言いました。
「そうか、あんたがクィリルか」
 名乗ってもいないのに、とクィリルが目を丸くすると、リンから聞いているよ、と注釈して店主が続ける。
「あんたは少なくとも半月の間は、毎日支払い済みのエスプレッソが飲めるよ。リンはあんたに声をかけた帰りは必ずここに寄って、今日も誘えなかったと嘆きながら毎回二杯分払って行ったから」
 狭い町なので、クィリルの少し難しい来し方は誰もがご存知です。行きはどういう目で見られても構うものかという態度で向かったのに、帰りは全く思いもしない心境でクィリルは家に着きました。その夜の寝入りはいつになくおだやかでした。昨日の憂いも明日の不安もありません。ただただ今日その日のことばかりなぞり返して、やがて静かに寝つきました。
 次の日のランチタイムは、じれったいことにリンが来ません。私が行ったことを、常連の多そうなあのカフェの誰もリンに話さなかった? そんなはずはない――と落ち着かない気持ちで午後の書架整理を終えました。
 退勤の挨拶をして裏の通用口から出ようとすると、リンがいました。クィリルに言いたいことが沢山あって、ありすぎて却って言葉が出てこないような顔をしていました。あとから出てきた同僚が好奇の目でリンを振り返りながら通り過ぎています。クィリルは、いつも彼を見た時の億劫な気持ちが全くないことに気付いて、晴れ晴れとした気持ちでこう言うことができました。
「おかげでおいしいエスプレッソが飲めたわ。ありがとう」
「……うん、そうだ、そうだろう、ワンズの腕は確かだから」
「今まで無駄なお金を出させてたみたいでごめんさい、払うわ」
 クィリル、と泣き出しそうに情けない声でリンが阻みました。
「そんな無粋なことをしないで、何で今こそ二人で飲みに行こうって言ってくれないんだ? 大丈夫だよ、二人で一週間はただで飲めるんだ」
 リンの口調のあまり切実な様子に、はっはは、とクィリルは笑いました。声を上げて笑ったのは、本当に、ひさしぶりのことでした。
おしまい。