ある非番の日の昼下がり、ヒロは教会への道行きで一人の孤児の少女とすれ違った。小さなかごの中に、小分けされた包みがいくつも。おお懐かしい、と思わず声をかけると、少女はおずおずとした様子で、お一つどうですか、と差し出した。
 それは慈雨の葉と呼ばれるハーブの一種だった。きれいな水辺に自生して、春先によく摂れる。摘んで乾かして茶葉にすると味がよく、薬として加工することも容易だったが、貧しい者以外が採取することは恥とされていた。茶葉の香ばしさを知る街の人たちは、春になり教会の孤児たちが水辺に繰り出し慈雨の葉を摘むのを楽しみにしていた。慈雨の葉を「仕入れた」孤児たちは、街に繰り出していっちょ前に商いをする。街の人たちも、寄付代わりに喜んで買った。
 少女から小分けした包みを三つ買い取ったヒロは、孤児院住まいだった幼少の頃に思い馳せた。小さなヒロも急ごしらえの小売人となって張り切って街を歩き回ったが、たいてい売れ残った。不吉な悪童の血筋であることが知れていて、みな関わり合いになりたくないという本音だから致し方ない。
『大丈夫よ、ヒロ。あなたのやさしさとすこやかさは、この私が知っているわ。あなたがそうある限り、きっといつか報われる日が来る――』
 誰も手に取ろうとしない慈雨の葉は、そんな慰めの言葉と共に、ヒロの呑み込みきれない思いごとクィリルがまとめて買い取った。
(クー、あの時いくつだったんだろ)
 あの時、母親を亡くしたばかりだったはずの彼女が、屈んで目線を合わせながらヒロの頭を優しく撫でた。恵まれない幼子をなだめることで自らの傷心を癒してもいたのか、ヒロにとってクィリルとの思い出はいつだって泣けるほど優しい。毎日の祈りの締め括りをヒロに送り、心底幸せを願ってくれた。――今日がよい日でありますように。
 それからクィリルは間もなく、昼も夜もなく浴びせられる父親の恫喝に怯えて心を病む。虚ろな目で礼拝堂の長椅子に座り込み、うわごとを呟く顔を覗き込んでも合わない視線が、彼女の深い錯乱を伝えた。ヒロはそれを悲しむ一方で、こうも強く思った。自分とクィリルとは、本人にいわれのない事情で苦しんでいる者同士だ、と。その不可思議なつながりに、クィリルもきっと引き寄せられていると、根拠もなく。
『一人じゃないよ、クー。おれがついてるからね。神父様もみんなも、ずっと味方だからね、ぜったいだよ』
 手を取って訴えると、ヒロの言葉を理解しているのかどうか、クィリルはうっそりと微笑んだ。ただその時、ヒロ、とやわらかく呼びかけたから、小さな少年をヒロとして認識していたのには違いない。そして、一緒に慈雨の葉で煎じたお茶を飲んだ。まだ熱い飲み物に慣れないヒロでも平気な温度に冷めるまで、クィリルはいつも待ってくれる。二人にとって数少ない、心安らぐ瞬間だった。
 成人して軍に入隊した今、そんな時間もなかなか持てずにいるけれど。ヒロは眼前に慈雨の葉を掲げて、その芳醇な香りを吸いこんだ。

「はい」
 胡乱な目線に出迎えられても怯まず、ヒロは孤児から買い取った慈雨の葉の包みをリンに向けて差し出した。夕方を迎えようとするカフェの喧騒が、ヒロの登場に少し静まる。
「クーも好きなやつだから、渡して」
「何で俺に?」
 リンの冷たい声の響きにも怯まず、いいから、とヒロは笑う。この程度の仕打ちは慣れっこだ、ということにヒロはしている。
「ちゃんと渡してね。俺のこと無下にするとクーが怒るよ」
「あぁ?」
「いやもちろん今はあんたのことが一番だけどさ。――クー、最近顔色がいい。あんたのおかげだろ」
 怪訝な目線も無欠の笑顔で押しやって、無理やりに握らせる。だめおしに、
「今日がよい日でありますように」
 溌剌と言えば、……もう夕方だよ、と力なく返したリンが、それでも慈雨の葉を受け取った。それで満足したヒロは、お邪魔しましたぁ、と背後のカフェの店主に声を張って踵を返す。
 他の客の忌々しげな舌打ちや咳払いを掻い潜って、サシエがトレイを置いて駆け出す。夫のワンズが咎めないので、彼女はそのままヒロの後を追った。
「ヒロ、待って、」
 何か飲んでいきなさいよ、と腕を掴まえる勢いのサシエにヒロが苦笑する。
「お客が減るよ、サシエ」
「――自分で自分を下げないの!」
 二言目に怒声を浴びせられて目を丸くするヒロに構った風もなく、もどかしげにサシエが両手を握り込んでそれを上下に振る。少し興奮して二の句が継げない彼女の様子に、ヒロは却って万感を感じ取った。
「ありがと……」
 子どものように頑是ない調子でぎこちなくそう言いながら、でもね、と言葉を切ってくしゃっと微笑む。金色の目を、少し細めて。
「……ちょっとずつね」

 悪童の血筋を示す身体的特徴は、その眼の色にあるといわれる。満月を写し取ったような金色。その色を始めて目にした時のことを思い起こして、クィリルがふっと微笑んで慈雨の葉の香りを吸いこむ。
「少し怖かったわね、正直。でも、とても美しいとも思ったの。初めて会った時よ、あの子はまだ六歳だった。……そんな複雑な顔しないで」
 玄関先に佇んだまま動こうとしない恋人にクィリルが苦笑すると、仰る通り複雑極まりない感情を湛えた表情でいたリンが天を仰ぐ。
「……正直割り切れないよ。でも、あんたとあいつの縁を俺が否定できる立場でもなし」
「慈雨の葉、ありがとう。孤児院のみんなと教会で飲んだのを思い出すわ」
 クィリルは気遣い気遣い言葉を選びながら、お茶をしていかない、とリンを誘った。
「聞いて欲しいの、あの子のこと。私の知るあの子のこと。……あの金色の瞳を持ったばかりに様々な仕打ちを受けたけれど、成人するなり軍に飛び込んでいったわ。国王陛下に恩を返すと同時に、名声を上げることで周りを見返そうとしてね。それは、少し危険かもしれないけど、とてもまっとうな手段だわ。……そんなあの子のこと、知って欲しいの。だって、孤児院のみんなは私には家族も同然だもの」
 両手を軽く挙げて降参の意を示したリンが、「お邪魔しても?」と小首を傾げる。お湯を沸かすわ、とクィリルが微笑んだ。
 リンがお茶請けに持参した焼き菓子を見ると、これ! と嬉しげに指を差す。
「カフェの近くのパン屋でしょう? カロルが引き取られたところよ」
「へえ、あそこの跡取り、孤児院の出身なの」
「良いご縁だったわ。気立ての優しい子だったからパン屋のご夫婦も気に入ってね。今でも孤児院に山ほどのパンを差し入れてくれるのよ」
「孤児院の出といえば、軍にえらく強い炎の魔法使いがいるって聞いたけど。若いのに魔物討伐にも引き入れられたって」
「ヒュウのことね。まだ二十歳にならないのに、一番の出世頭じゃないかしら。魔法の腕は名高い魔女に弟子入りして磨いたそうよ。ヒロが一番懐いてるわ――そうそう、魔法使いと言えばコウトとも仲が良かった。コウトは飛行と防御の術が得意で、ヒロが盛んに軍入りを勧めたけど、宮仕えは窮屈だからって冒険者になったのよ。そういえば、ルカは魔法もさっぱりで、身体を動かすことなんか全く不得手だったのに、不思議にヒロやヒュウやコウトと仲が良かったわ。気が合ったのね。今では書き物で身を立てているのよ。すごいでしょう?」
「……仲良しの男が多いみたいで心配だよ」
「じゃあ女の子の話もするわ。ニノは貴族の家で働くのが夢で、口調もお上品にしなくちゃといって周りの子たちみんな兄様姉様って丁寧に呼んで慕っていたのが本当に可愛かった。あの子の手にかかるとレースがとんでもなく繊細で、男爵様のご夫人の目に留まって御針子に引き取られたわ、お望みどおりに。……あの子、エキドナと別れるとき一番泣いてね、……」
「エキドナは何になったの」
「色街へ行ったわ。パーパ(神父様)と大げんかして、娼婦になったの」

「……もうそんな時期か」
 宵っ張りと貶されても言い訳のきかない時間帯、酒場のカウンターの向こうでエールを注いでいたヨシュアが感慨深げに呟く。うん、とカウンター席を陣取ったヒロがご機嫌に頷いた。
「春の風物詩だもんね、慈雨の葉は。クーのとこに一つ置いてきたんだ。あとはヒュウ兄ぃに渡してくる」
「茶なんか嗜むのか、あのザルが」
 何気なくヨシュアが相槌を打つと、ヒロが急に居住まいを正す。
「こないだ、手土産にいいものないかって聞かれたんだ。……エキドナのとこに行くって」
「……何をしに?」
 わかんない、と神妙な顔のままヒロが首を振る。
「わかんないけど、……そろそろパーパに恩返しするって言ってた」

 ヒュウが使役する家事手伝いの妖精ブラウニーはノッカーという名前だ。報酬は新鮮なミルクか蜂蜜。ヒュウの住む家では洗濯と掃除のみを行う。ほんの30センチほどの体長では、それはなかなかの重労働だ。料理はできないので、ヒュウは日々の食事をほぼ外食でどうにかしている。この朝も買い置きのチーズをかじったくらいでおしまいだ。
「すいませんね、旦那。あたしも掃除と洗濯だけで手いっぱいで、料理ばかりは」
「そう思うなら早く料理のできるブラウニーと結婚してくれよ。男でも別にいいけどな、俺に偏見は無い」
「あたしの性的嗜好は女だけ! 旦那の方こそ料理のできる女性なり男性なりと婚姻なさればいいんでは」
「……婚姻といったか」
「ひっ! 『靴下』だけはご勘弁!」
 家事手伝いの妖精に衣類を渡すことはすなわちクビという意味だ。
「今日は遅くなる。気にせず先に休め」
「旦那、また……例のところですか?」
 色街で男娼を買いに? と声を小さくしたノッカーを横目でちらり見て、今日はな、とヒュウは悪い笑みを浮かべた。
「娼婦を買いに行く」
「……宗旨替えで?」
「一度きりだ」
 ヒュウは手をふりふり出ていった。

 夕暮れ、色街が目覚め出す。娼館の入り口に客引きが立つ頃合いだった
 その一人であるエキドナは、派手な色の肩掛けの隙間からむき出しの肩口の肌のきめを見せつけながら、濃く化粧した目元で虚ろに街並みを眺めている。
「……あんた、大丈夫なの、体調」
 傍らに立つ娼婦の一人が気遣わしげに声をかけた。エキドナはつり上げた眉の表情一つでそれをはねつける。それが呼び水になったように、ごほ、とせき込んだのをごまかすように肩掛けを巻き付け直した。
 その時、高い声が幾重にも一人の青年を呼びかけるのを聞いた。
 娼婦たちの手招きを鬱陶しそうに掻い潜り、程なくエキドナの方を向いた顔立ちがばかに整っていたので、女たちが色めいてさざめく訳は十分に知れた。けれどエキドナはやがてその顔つきに見覚えがあるのに気付いて、長く呼んでいない名前をしばし記憶から探った。
 相手はそれを待たず、エキドナ、と呼んだ。色街に潜り込んだ十四の年から偽名を使っているので、打たれたかと思うほど懐かしい響きだった。
 青年はエキドナの前に立つと、つかつかと歩み寄ってきたその勢いとは裏腹にしばし言葉を探す沈黙に陥った。その間にエキドナはやっと名を思い出す。
「――ヒュウ」
「エキドナ。……飯」
 エキドナは怪訝な顔をする。
「なんて?」
「飯作ってくんねえか」
「お腹が減ったっていいたいの? 食事を出さないこともないけど、あんた、あたしを買う気?」
「買う」
 ヒュウのきっぱりとした物言いに、エキドナはむしろ勝ち気に嘲笑する。
「思い出した。あんた、ふた筋向こうでせっせと男娼を買ってるって聞いたわよ。両刀だったの? あたしにも勃ってくださるわけ?」
「そうじゃねえよ。お前を買って連れ帰る」
「……はあ?」
「あるじはどこだ」
 ――お前の値段を聞いてやる、とヒュウはこわいほど冷静な目で告げた。やがて緋色の肩掛けの下からじゃらりと取り出したのは宝石を幾重にも連ねたもので、二人のやりとりを遠巻きに眺めていた娼婦があっと声を上げる。
「メイスフィールドの工房で細工したものだ、預けてた分全部引っ張り出してきた。即金としても十分だろ」
「……いきなり来たかと思えば、何を……」
「あぁ、お前にはこれだ」
 といって、ヒュウは今度は懐を探った。
 取り出したるは、孤児院出身の者にはどこまでも懐かしい、包まれた慈雨の葉。顔色の悪いエキドナの眼差しだけがその瞬間、鋭く冴え渡る。
「俺もそろそろパーパに恩返しだ。エキドナ、絶対にお前を今日連れて帰る。さっさと荷物まとめてこい」
 居丈高なヒュウの物言いに、エキドナの腕がひゅっと伸びた。頬を張る高い音が鳴る。――そして、人一人の重量が倒れる音が、した。

 翌朝。城の修練場で、エマニエルは何と言っていいかわからないあいまいな笑い顔でヒュウを眺めた。このきれいな顔立ちに、よくこんな大きな紅葉をつけられたものだと真っ赤な手形のついた頬あたりを見つめる。どこの女だろうか。ヒュウの場合、男もあり得る。
「おまけに、」
「あ?」
「寝不足なんだな」
「……ああ。一睡もしてねえ」
「何があったんだよ。愁嘆場でも演じたのか?」
 聞かれたヒュウがめんどくさそうに肩をすくめ、それでもやがて口を開いた。
「娼婦を一人身請けしてきた」
「お、おぉ」
「そしたらそいつが呪いにかかっていることが知れて」
「……おぉ」
「呪いをかけている魔女を割り出すのに今朝までかかってた」
 くぁ、と大きなあくびを挟んで。
「同業者の妬みを買って、仲介した魔女に呪いをかけられるに至って、しばらく体調が悪いまま借金を重ねていたらしい。娼館の主との交渉の前に当人がぶっ倒れたから、身請けするのもラクだった。呪いも死ぬほどのものじゃねえし、魔女にはかえって感謝だな」
「……そ、んなに御執心なのか、その娼婦に」
 展開の激しい打ち明け話に呆気にとられたエマニエルに聞かれて、ヒュウはなんとなしに宙を見つめた。
「幼なじみなんだ。同じ孤児院出身の」
「あぁ、……そういう縁があったのか。今は? 教会にいるのか? まだ具合悪いんだろ」
 教会は医療機関を兼ねるので、具合の悪い者の行き先だ。けれど、ヒュウは首を横に振った。
「教会は拒んでる。クーっていう、昔からの知り合いに頼んだ」

 長いこと一日中ひどい倦怠感に苛まされていたのに、その起き抜けは体が幾分軽かった。目を覚ましたエキドナは、自分のいる見慣れない空間に目を巡らせる。
「起きた?」
 あかがね色の髪が視界に入って、おぼろな名前を記憶の底から探った。
「クィリルよ」
「……クー」
「仕事が休みだったから、頼まれてきたの。何かと思ったわ、ヒュウから頼まれ事なんて初めてだもの。もう昼よ、起きあがれる? 何か食べないと」
「……何も食べる気しない。前よかマシだけど、だるい」
 ここどこよ、とエキドナが呟くと。
「ヒュウの家よ。すごいわね、あの年で自分の家があるなんて。……ひどく痩せてる」
 エキドナの頬に手を当てて、クィリルは眉を潜めた。
「スープなら飲めるでしょう。薬も飲まないとね。お昼に届くはずなんだけど……」
 薬、の言葉にエキドナの眼差しがざわめいた。そこへ控えめな足音が近づく。部屋をのぞき込んだ人影は、そっとクィリルに声をかけた。
「クー、エキドナ起きた?」
「ヒロ」
「昼休みだから抜けてきた。パーパから薬もらってきたよ」
 小さな皮袋を掲げてみせたヒロの言葉を聞いて、エキドナは力をなくしたように瞼を伏せた。
 ――あぁ、パーパ。あたしが傷つけた人。あたしが刻みつけた傷。あたしにしか癒せない傷。……もう癒えてしまったというの。

(こんなにたやすく許すというの?)

「……毒でも盛られた方がマシよ」
「ゆうべまで魔女に呪われていた人が、何を言うのよ」
 クィリルの驚いた声を塞ぐようにエキドナは寝具の中に閉じこもる。エキドナ、と皮袋を持ったままヒロが立ちすくんだ。